2011年12月28日水曜日

正月でふやけた体を雪にさらして引き締めませんか!

鎌田克則です。

今年の年末は大雪ですね。特に湖北は。さて正月の2日か3日午後から車で出掛け、余呉湖周辺の民宿辺りに泊まり、翌朝、北国街道栃の木峠付近のスキー場に車をデポ、栃の木峠東方向稜線~ベルグ余呉スキー場(休業中)~音波山(872,6m)~下谷山(971m)を往復しようかと思っています。(余呉トレイルの主稜です)相当豪雪(現在190cm)でワカンでは無理、スキーも細かい凹凸で多分不向き、スノーシューが有効かと思われます。
要は正月でふやけた体を引き締めるのに最適です。一発行こうという方居られませんか!!2~3人なら私の車で、それ以上ならどなたか車をお願いします。
詳細は、参加希望者の希望を聞いてきめます。但しある程度好天が条件です。
尚申し込みは、私がこのネットを30日以降見ることが出来ませんので、私の携帯か自宅にご連絡ください。ではお待ちしてます。

2011年11月28日月曜日

チュウトンさんより激励の手紙を受け取りました。

 先ずこの2、3日、古い山の会(その昔、山に行きたしは時間は無しで、山と車の会と言うのを作ったら、それからウン十年、最高94歳以下平均75歳ぐらいの人が、会は無くなったのに別れられず、勝浦温泉に集まった)に行っているうちに、えらいmailのやり取りが沢山あり、これMLのおかげでしょうか。全く夢の様です。 
 ところで北山の会の通信の件ですが、この間の総会の出席者が少なかった事から、通信の発行と、北海道方面山行(アンチンさんに企画依頼中)を提唱し、動き始めました。しかし肝心のチュウトンさんの了解が不確実でした。 
 そこでそのご了解と予算のお願いの手紙を送っておきました所、提案の趣旨に賛同する旨の手紙を頂きました。
加えて
1)総会は人数が少なくとも、継続したい。
2)ブログはもとより通信で未来へ向けて活動報告が載ることを期待する。 
3)会報は他の山岳会より充実したものをと、心がけてきたが、それについては今後も続けていく。4)通信にかかる諸費用は、会計より支出する。 
以上のようなお返事を頂きました。
 それ以外に、石徹白の故事来歴を調べ、会報の原稿を作成中とか、志賀高原行きは2部屋予約しているとか、蕨平は、参加希望が沢山来ている等、が記されておりました。
 これで天下晴れて堂々通信が発行できる様になり、名簿も頂きましたので、年内発行を目指し、四手井さんに編集をお願いしています。
 皆さんの計画や、報告、ニュース、トピックス MAILやブログで一部の人しか伝わっていないと思われる情報も載せたいと思っています。皆さんの積極的な協力をお願いいたします。
 高鍬さんより、MAILアドレスの載せ方について注意いただいております。大いに参考になり、早速訂正いたしました。皆さんも注意されるようお勧めします。有難うございました。
 東北森吉山より岩手山の計画にえらく燃えておりますが、何なりとご意見、希望をお待ちもうしあげております。
 それとそこまでの交通機関について、車にすべく張り切っておりますが。何の反応も無いので、力が抜けかけています。来年春の話に年甲斐もなく今から燃えているのが恥ずかしい。
 なんやかや書きました。そのうち通信を送りますのでご期待ください。
                                            鎌田 克則

2011年11月25日金曜日

早春の森吉山から岩手山へ山スキー計画  荻野和彦







 上記計画は、前副会長 荻野和彦さんが、その仲間と練られたものです。が北山の会でも揉んで欲しいと御注文です。
 私は高鍬さん経由でこの計画を始めて知り、震えました。
 かねがね行きたいと思っていた所ですが、このルートは、体力も、技術も当然ながら、山スキーですから、足並みの揃ったメンバーの参加が必須です。とても無理と諦めていました。
 そこへ突如この計画が降って来ました。この計画の内容は、詳細を御覧になれば解りますが、3つに分けて、幕営用具持参の長期の山スキー計画で、私としてはとても無理です。
 しかしよく見ると、玉川温泉、後生掛温泉、網張温泉が中継点となっていて、3ヶ所共車で行けます。
 そこへ目を付けて、各温泉に先廻りして出迎え、送り出しその前後は同行、後は温泉ベースにワンディハイク楽しむと云う軟弱な計画をし、荻野さんに申し出ました所、OKが出ました。
 荻野さんは、優秀な医者が同行するからストレス、腰痛等等リハビリに良いとおっしゃっていますが、とてもその甘言に乗れるものではありません。
 よって我と思わん人は荻野さんの縦走組へ。軟弱な人は私の方(但し運転出来る人)にお申し出下さい。
 詳細内容は、荻野さんなり、私にお問合せ下さい。
 では シーハイル        
                                       鎌田 克則
                          ( 鎌田mailアドレス rac-kamada@@tkcnf.or.jp )

2011年11月12日土曜日

山に英雄はいらない

「岳人」11月号の記事がちょっと話題になった。一部に誤解があるようである。私は竹内君の記事を批判したわけではなく、太田君も批判はしていない。ただ、一般に、「…の父」という大げさな称号は止めた方がいいと考えているだけである。太田君も同じような考えだと思える。山には「英雄」はいらんのだ。京都の登山界は大きく分けて二つの流れがあるとしたが、優劣は論じていない。基本的に、山は好きなように登ればよい。ただ、北山に関しては、「北山の会」が主体的に関与したいと考えている。
 マスコミは英雄をつくりたがる。森本次男を英雄視すると言えば大げさだが、「北山の父」とするのは一種の偶像視である。英雄視も偶像視も似たようなものだ。本人が望んだわけではなかろうが、取り巻き、あるいは英雄待望の世論(マスコミ)というものが作用していたかもしれない。
アウトドアの世界で、現代のつくられた英雄の典型は植村直己であろう。植村には何の恨みもない。植村を称賛したい人はすればよい。だが、私から見れば、植村は近代アルピニズムの範疇からは完全に外れた存在である。近代アルピニズムの根底思想はパイオニアワークとアマチュアリズムである。
ヒマラヤの処女峰時代が終わって、登山は変質した。即ち、スポーツ化と商業主義の台頭である。処女峰がなくなったので、次に狙うのはバリエーションルート、アルパインスタイル、無酸素といったよりスポーツ的傾向であった。また、テレビの影響で商業主義が強く表れた。登山の職業化である。これはアマチュアリズムの崩壊を意味する。登山を続けることでマスコミの脚光を浴び、生計をたてるという人々が現れた。植村がその嚆矢である。植村はテレビで持てはやされ、テレビのために死んだ。
植村に没後、国民栄誉賞が与えられた。どういう賞かよくわからない。植村は死んでいるから、それを望んだかどうかわからない。だが、生きていたとして、それを拒んだとは考えにくい。英雄視された男にふさわしい栄誉というべきか。
ヨーロッパにラインホルト・メスナ―という登山家がいる。8000m14座にすべて登った男である。毀誉褒貶激しいと聞くが、私はメスナ―を秘かに尊敬している。オリンピックの“愚物”サマランチが特別メダルをやる、と言ったとき、メスナ―は何と応えたか。「登山はスポーツではないからいらん」だったのだ。世俗を嫌うこの一言は、十分に傾聴すべき価値がある。
メスナ―は少し遅れて世に出た登山家である。処女峰時代は終わっていた。だから、無酸素とか、単独登攀というスポーツ的登山に向かわざるを得なった。そのメスナ―にして、「登山はスポーツではない」と言わしめたのは何か。私はそこに、ヨーロッパに深く根付いた近代アルピニズムの矜持を見る思いがする。植村との違い、日本とヨーロッパの思考の違いといったものも感じてしまうのだ。
余談だが、「ヒマラヤ 運命の山」というメスナ―を主人公にした映画を観た。特にメスナ―を英雄視していないところがよかった。ナンガパルバットでの隊長の指揮を無視した行動、弟ギュンターを死なせたことなど、淡々と描かれていた。
 友人の前芝茂人君(同志社山岳会、日本山岳会)からスイス山岳会についての知見を得ているので紹介する。登山先進地のヨーロッパと日本の、登山についての思考の違いを痛感する。前芝君は小学館でスイス山岳研究財団が出す「マウンテン・ワールド」の日本版編集をしていたことがある。1982年にスイスを訪ね、同会幹部のA・エグラーと打ち合わせをしたとき、エグラーはこう語ったという。「1960年代でスイス山岳会の役目は終わった。『マウンテン・ワールド』も1969年までで廃刊したのだ」。1960年はスイス隊の二つ目の8000m峰、ダウラギリ登頂の年代を意味するのかもしれない。時代の変化を認識している。前芝は一つの見識と思ったと、いまになって思い返す。
 スイスの貴族ド・ソシュールがモンブランに登って近代アルピニズムに火をつけたのは1787年、難攻不落のマッターホルンがイギリス人、エドワード・ウインパーによって登られたのが1865年である。この間に、ヨーロッパ各国で登山活動の花が開いた。
一方、日本において、ウオルター・ウエストンの前穂高登頂(1893年)を近代アルピニズムの開花とするなら、ド・ソシュールとの間に約100年の差がある。列強入りを目指して欧米の技術、文化を取り入れようとしていた明治期の日本人は、ハイカラな登山にもいち早く目をつけた。1905年には日本山岳会が興り、1956年にはヒマラヤのジャイアンツ、マナスル初登頂の栄誉を掌中に収めるに至った。恐らく、関連する人口、その実績において、日本は世界を代表する登山国であろう。だが、昨今の登山界の変貌に対処する姿勢には彼我に著しい違いが見られる。それはヨーロッパと日本の、近代アルピニズム100年の差によものではないだろうか。メスナ―の登山感にも、それを強く感じるのである。
 処女峰時代が終わって、近代アルピニズムは終焉した。日本においてはマナスル登頂で一つの時代が終わったのである。だが、日本の登山界にはその認識がない。無定見にスポーツ化、商業化を受け入れ、近年は「山の日」制定などの茶番に血道をあげている。スポーツ化、商業化が悪である、と決めつけるわけではない。山は好きなように登ればよい。だが、近代アルピニズムを標榜してきた山岳会にあっては、そこに一線を画してほしいと思うだけである。日本国は敗戦という一つの時代を区切りに、民主国家として新しく生きることを世界に宣言した。登山界はそれをしていない。

 話が逸れた。山の世界に英雄はいらないが本筋であった。「父」もいらない。商業主義は英雄を待望する。そこに登山家が陥る危ない罠がある。北山の山岳史跡公園構想は、公園化して標識やベンチを設置しようとするものではない。北山荘周辺が私有地であることに一抹の不安を感じているのである。所有者が代わると、北山荘がどうなるかわからない。府教委に買ってもらうか、我々が買うか、一切の開発を断ち、現状維持できる道を模索したい。
(2011年10月27日、四手井 靖彦)

2011年11月10日木曜日

石徹白の明と暗

初めて石徹白を訪ねたのは高校生のときだった。先輩たちはここから大日岳を目指していた。いまは大日岳の東斜面にスキー場が開発されているが、当時は積雪期に石徹白から登るのが普通のルートだった。ルーム日誌でそんな山行記録を読んでいた。
 私どもも大日岳に登るつもりだったが、雪の少ない年でブッシュが出ていた。西の小白山(おじろみやま)に転進した。スキーで橋立峠から頂上に至った。このとき、上在所の石徹白千代之助さんの家に泊まった。先輩たちもみんな、ここをベースにしていた。そのころすでに、千代之助さん夫婦はかなりのお年寄りに思えた。奥さんは片方の目が不自由と聞いた。あまり姿を見せなかった。今西武奈太郎さんは、奥さんのキクラゲのクルミ和えがおいしかったと回想している。
 その後、かなり年をとってから野伏ヶ岳と願教寺山を目指した。野伏岳は日本山岳会パーティーだった。登頂後、5人パーティーの紅一点が転倒して足首を骨折し、降ろすのに苦労した。願教寺山は5月の連休だったか、ツボ足だったが、熊笹の上の雪が一歩踏み出す度に崩れて滑り、とても歩ける状態ではなかった。早々に撤退した。この二つの登山は、下在所にできた新しい民宿を利用した。
 今回の石徹白行きの一つの目的は上在所を訪ねることだった。千代之助さんの家はもうなかった。跡地に地域のコミュニティーセンターという建物が出来ていた。近くに縁戚の人がいた。千代之助さんの消息を聞いた。周囲の環境はほとんど変わらず、大きな杉木立に囲まれた白山中居神社のたたずまいは昔のままだった。落葉した周囲の山々がくすんで見えた。石徹白川のせせらぎが野伏岳から薙刀、願教示山へと白山の別山に連なる水上の山々へ誘っているように思えた。千代之助さんがいないだけで、みんな昔と同じだった。これを石徹白の「明」としておこう。

 これに対する「暗」は開発である。桧峠付近に大規模なスキー場やゴルフ場が出来ている。これらの開発が一概に悪いと言うつもりはない。だが、開発行為は自然破壊と紙一重である。それと、自然愛好家との調和という問題を突き付けている。
 桧峠の南に毘沙門岳がある。その斜面は「ぶどうヶ原」だったか、そんな呼び名であった。恐らく萱場だったのだろう。立木のない広い斜面だった。そこがスキー場に開発され、さらに無雪期はゴルフ場になった。
 毘沙門岳への古い登山道がある。それがゴルフ場に取り込まれてしまった。進入路に「登山者進入禁止」と、悪意に満ちた表示がある。がらがらの駐車場に入ると男が飛び出してきて、「私有地だから帰れ」と居丈高である。何もゴルフの邪魔をしようと思っているわけではない。ゴルフ場の縁にある登山道を歩くだけではないか。
 国有林にしろ、私有林にしろ、国土にはすべて所有権が発生している。だが、昔から登山者は自由に山に入っていいことになっている。こういうときに持ち出すべきではないが、入会権と言う言葉もある。これは一つの文化といってよい。私有地だからと言って自然を取り込み、有料利用者以外を一切拒否する強権的姿勢は、日本古来の優れた文化に反する。登山とゴルフが互いに尊重しながら共存する道はないのか。
 ケチのついた毘沙門岳をやんぺして、北側の水後山(すいごやま)に変更した。毘沙門岳には若いころに登っているから未練はない。水後山は私にとって未踏峰である。こちらの方が値打ちがある。昔、石徹白に入るのに、越美南線の終点、北濃駅から歩いて桧峠を越えた。そして、毘沙門岳に登って上在所まで行ったのだ。若いころの話だが、よくそんな元気があったものだ。
水後山から降りて桧峠に戻ったとき、毘沙門岳方向から2人の婦人パーティーが降りてきた。ゴルフ場が場内を通らない新ルートをつくっているという。婦人らはそれを通って登ってきた。「どうでしたか」と聞いてみた。「崖っぷちに急造した道で、笹も生えて危険がいっぱい。ゴルフ場のおかげでえらい目に遭った。もう、2度と通りたくない」と大変な立腹であった。もし、このルートで遭難が起きたら、ゴルフ場は責任を取るのだろうか。「暗」が想定や感情の段階ならまだよい。もし、いい加減な登山道で不幸な事故が起きたとしたら、開発行為が取り返しのつかない「暗転」になる。ゴルフ場開発に際しての、行政の指導にも問題がありそうである。
                              (2011年11月7日、四手井 靖彦)

2011年11月8日火曜日

センチメンタル ジャーニー 2011.11.1~2 鎌田 克則

          石徹白の旅 写真物語

 川井、中村、鎌田、四手井、上嶋以上五名、好天のもと、111日、勇躍山科を出発、福井より美濃街道を大野に向かう。経ケ岳、荒島岳、銀杏峰、部子山が見えれば、話題尽きる事なし。鳩ケ湯より刈り込み池の予定が、道路工事で鳩ケ湯でストップ、紅葉の上に、別山、三ノ峰が見えただけで、大満足。
 
 石徹白川を遡る。今でこそ立派な道路だが、これが積雪期なら、さぞ大変だったろう。昭和34年に福井県から岐阜県に所属が移ったとのことだが、うなずける話だ。我々は、福井県時代に訪ねていたのだ。
 石徹白に入り、先ずは上在所の白山神社だ。
 古色蒼然足る大杉木立の中の神社のたたずまいは、清楚にして、真摯なる白山信仰の奥深さを感ぜずに居れません。

 
 何とチュートンさんは、64年ぶりだとの事。檜峠より毘沙門を登って石徹白に入った由、中在所でばてて○○旅館に泊まったとか、神社の鳥居のここ(今は神社の駐車場になっている)に石徹白○○さんの家があったとか、何を食べたとか、64年前のことをよく覚えておられるのに驚くばかり。
 都合よく向かいにその消息を知る人がいて、根ほり葉ほり聴く。詳しい内容は、チュートンさんの報告に譲ります。

 

宿はカルヴィラいとしろ、石徹白の下在所が見下ろせる。宿は我等5人のみ。

  翌朝、檜峠へ。毘沙門に登るべしが、ゴルフ場になっていて、ゴルフ場側と通せ、通さぬで押し問答 (後で下山者に聞いたら、回避道はひどかったとのこと)結局諦めて北側の水後山へ。スキー場を登り、後も快適な登山道,標高差500mをなんとか登り1586mの頂上へ。大日岳の頂上が見えないのは残念だが、晴天下、紅葉の石徹白、美濃の山々が見渡せる。それぞれ思い出す事多し。
 

 
後は一路下山。そして北濃、白鳥経由帰京。
それにしても、北濃より、雪道を歩いて、檜峠を越えて石徹白まで、よくぞ入ったものだ、と言うのが、皆の共通の感慨でした。

鎌田 記
 

2011年10月23日日曜日

北山の記事 

 四手井先輩のブログに大賛成です。「北山の父」の表現は確かに私も誇大表現と思います。森本氏が言われた言葉ではないと思いますが、森本氏を取り巻く社会の方々(ある種の職業的集団)が「○○の父」とよく使う言葉です。
 また、私が高校生の頃から北山の地名については、北山の会の大先輩達が採取したものや命名したものを誰かが無断使用して本を出版した話はよく聞かれた話です。
そのことは、北山の歴史の中でも汚れた一部ですが決して忘れられることはないと思います。
 山登りは、誰が検証しなくても「登った」と言われればそれを信じる紳士の世界なのですからそれから外れることをすればそれなりの評価しか受けません。北山荘に行く途中に壊れた山小屋がありますが栄華盛衰を感じさせるのは私だけでないでしょう。その山小屋が全てを物語っているように感じます。
それより前に建った北山荘が現在でも多くの人々によって愛され守られ健在であることもそれを物語っているようです。
 おっしゃる通り、京都には、北山問題より大きな「京都学派」という学会用語があるように京都独特の自然科学を基礎にした考え方の派がありますが、その原点は京一中を基礎とした北山を愛して登った「山登りグループ」(本当は北山の会の前身と書きたいのですが少し大げさになるのであえて書きませんが私は、それを作ったのは京一中山岳部の大先輩達)だと思います。それが脈々と現在の学問の主流になりつつあることは喜ばしいことです。
 山岳史跡公園の構想は面白いですが、かえって自然が壊されたりしないかと思います。歩いてしか行けないところが年々少なくなっていますがそれがなくなるのではないかと心配です。北山荘も歩いてしか行けないし、トイレもないのがいいんだと私は思ってます。
 北山の会の方々がもう一つ系列の方々と付き会おうとすればどうしても、北山の会を肯定しては行けない部分が出てくるのか色眼鏡的に見られることもあるように感じます。どちらにも引けないプライドがあるようですが、私は、北山の会のほうが正統派だと思ってます。向こうもそう思っているのでしょう。
お互いに融和の心がないとこの問題は解決しないでしょう。竹内氏もそんな風に思われて退会されたのかもしれませんが、年が経つと此の事も解かってこられると思います。その時は大きな心で迎えましょう。
洛北8期 太田 亙

2011年10月19日水曜日

岳人11月号

「岳人」11月号の北山特集は愚生も読みました。筆者の竹内康之君から連絡をいただきました。桟敷岳は高校時代以来、ご無沙汰でしたが、2年前に利尻へ行くトレーニングの一つとして登りました。北山では最近、登った部類です。北山には、未踏の三角点がほとんどなくなりました。
 北山荘周辺は北山の会のルーツ、一中山岳部の大先輩らの揺りかごの地で、初代北山の小舎跡、今西記念碑、北山荘を3点セットにした「山岳史跡公園」として現状保存できれば、と考えています。
 北山特集の文中に、森本次男さんのことを「北山の父」と書かれている部分がありましたが、この点に関しては、いささか疑問を感じています。京都の登山家の系譜は二通りあって、一つは今西さんを中心とする一中、三高の流れです。これを一中系としておきましょう。もう一つは小谷隆一さんを中心とする流れで、私はこれを府岳連系と名付けています。それぞれ独自の活動をしてきました。森本さんは府岳連系と言ってよいでしょう。ニ商出身かニ商の先生だったか、小谷さんとの結びつきは強いと思われます。
 だが、こと北山に関しては、歴史的かつ実践的に、一中系が大きな役割を果たしてきたと考えています。森本さんは「京都北山と丹波高原」を著し、北山登山の普及に貢献したと言えますが、その著作は一中山岳部の「山城三十山記」からの剽窃が多いと、梅棹さんは終生、怒りの覚めることがありませんでした。このことはさておいても、森本さんに「北山の父」の尊称がふさわしいかどうかは、検証するべき課題だと思います。
 「比良の父」と言われた人もいました。この人が京阪電鉄の武奈ヶ岳周辺開発にお墨付きを与え、どれほど比良の自然破壊に加担したかは知る人ぞ知る事実です。森本さんには竹内君が付与したわけではありませんが、「○○の父」などという尊称は、安易に人に与えるものではないと、かねがね考えています。
 竹内君は鴨沂の22期で、一緒に山にも登っています。かなり昔の話ですが、美濃の屏風、左門に登りました。本職はデザイナーで、北山の会が発刊した一中山岳部史「行く手は北山その彼方」の装丁も手掛けてもらいました。どういうわけか、数年前に退会しています。残念です。いつか、復帰を期待しています。
                                         (四手井 靖彦)

2011年10月18日火曜日

北山荘の記事

2011年雑誌「岳人」11月号の第二特集は「歴史と峠の交錯路京都北山の歩き方」として67ページから82ページまで掲載されている。筆者は竹内康之氏で、彼は北山の会の会員で鴨沂22期45年卒である。北山の会総会でお会いしたことがあるかもしれないが私はあまりよく知らないが活躍されているようだ。(同じ月の「山と渓谷」212ページにも彼の記事がある)
北山荘のことも75ページに「歴史を刻む山小屋」として詳しく正確に書かれていて、屋根が改修された後の写真が載せられている。その文章のなかで、京一中山岳部から始まった北山歩きが引き継がれ北山の会会員の我々の原点であり、そのベースが北山荘であると書かれているのが嬉しい。
偶然ではあるが、同号と「山渓」の11月号には我々が現役の時代に最も重要な山行の技術として教えこまれた地図を読む「読図」が特集として組まれていて楽しく読める。
また「山渓」の174ページには梅棹忠夫先輩の記事があり、大先輩の「未知への限りない情熱」が紹介されている。梅棹先輩の数々の御著書は最近特に山を愛する人に読まれているようで書店でもよく目につく。この本はまだ読んでないがぜひ読みたい一冊だ。
岳人の同号には、「北の山河抄」を新谷暁生君が書いているが、彼は大学時代の後輩で、ニセコや知床で活躍している冒険心を持つ本物のプロのシーカヤックガイドだ。
「岳人」は私が高校時代に買った105号からよく読む雑誌だが今月号は特に親しみが持てる。
洛北8期 太田 亙

2011年10月4日火曜日

10月末~11月初め、錦秋の石徹白に行こう!!

私は、高校山岳部時代、大変お世話になり、また北山の会と云うOB会を作って頂いて、又楽しく過ごさせていただいている諸先輩に、何とか御礼の気持ちを込めて一度ご希望の場所にご案内したいと思い、秋の奥美濃、白山周辺、飛騨等を申し出ておりました。
そしたら会務等で人一倍お世話になっているチュートンさんより、石徹白に行きたい、途中郡上八幡に寄って欲しいとのご希望を聞きました。
 紅葉の石徹白、白山神社を訪ね、周辺の山々を眺めるだけで、積もる話が出てくるでしょう。道中石徹白に一泊すれば、それこそゆっくり話も出来、また往路、復路色々寄る所あり、楽しい事請け合いです。
 問題は、日程、天候、紅葉の具合、宿、参加人数、車の手配です。
 今回は、天候と紅葉の具合を最優先にします。即ち概ね10月末、11月初め辺りが通年紅葉最盛期なので、その辺りに狙いを定め、数日前には凡その天気が予測出来ますので、そこで日程を決める。そして宿を手配することにします。どちらかと言うと、休日は避けたい。
そんなラフな計画ですが、皆さん是非参加してください。人数によって個人提供車か、事によっては,MKジャンボTAXI、小型貸しきりバスも視野に入れています。
要は、楽しくわいわい言いながら、秋の石徹白を楽しもうという計画です。自分だけでなく、是非北山の会の他の人にも声を掛けてください。
参加申込は、勝手ながら、私は1010日より19日まで、シルクロード、タクラマカン砂漠に行きますので、四手井靖彦さんにお願いします。
メールアドレスは次の通りです。
 四手井 靖彦 edel-ys@zeus.eonet.ne.jp
 〒607-8452 京都市山科区厨子奥矢倉町22-1
  TELFAX 075-591-5189
是非皆さんの参加をお待ちしています。
                                                                    鴨6 鎌田克則

また、また「皆子山」

また、また「皆子山」
 また、また「皆子山」である。「もう、その話はええ、やめ―!」という声が聞こえて来そうである。我慢してもう1回だけ読んでもらいたい。北山に関しては、その登山史に最も深い関係のある「北山の会」が、すべてに応える義務と責任があると考えている。

 「皆子山」の呼称について、先に横田和雄(京都山の会)の「京都府の三角点峰」から、西尾寿一同会会長の「みなご」説を紹介した。その後、西尾が日本山岳会京都支部報(No.13、1988年12月15日)に「『みなご』の名称について」を投稿しているのを思い出し、再読した。重複する部分もあるが、要点を以下に紹介する。
西尾の「みなご」説は主として塩田愛雄氏(1987年没)の「皆子の山名に就いて」を敷衍したものである。それによると、「ミ」は美であり「ナゴ」をナギやナコまたはナコソと捉え、語意を「美しい砂地の平坦地」と解釈する。その図式は以下の通りである。
◎ミ=「美」、美しい好ましい所
◎ナゴ・ナギ・ナカ=崖・浸食地形・焼畑であり、川の上流に広がる美しい白いガレの見える平地と解釈される。また、「ミナ」と「ゴ」に分離した場合、
◎ミナ=「水」「皆」「南」「蜷」
◎ゴ=「川・河」「郷」「興」「呉「牛・午」「胡」としている。
皆子山周辺でこれらに当てはまる土地は安全性、交通の条件、生産活動から考えて、安曇川筋の「平」しかない、というのが西尾の結論である。そして、やや唐突であるが、「平」が「美那古」の呼称であったとしても、十分納得できるという大胆な推論を展開している。「那古」は「和む」の意味であろう。
また、西尾は独自の調査から、鈴鹿の愛知川(神崎川)と安曇川の類似性に言及している。古来、地元では愛知川源流のことを「南川」(みなご)と呼んでいたという。南川とは、北流する川のことであり、愛知川と安曇川はさまざまな類似点があることから、安曇川も古くは南川(みなご)と呼ばれていた可能性があるという。
山の名称であっても、土地の人が山頂そのものの名を知らないことが多い。逆に谷の名は小さなものでも、よく名付けられている。それは、土地の人が「山地」全体と結ばれていても、必ずしも山頂を意識しているわけではないからである。従って、先駆的登山者は山頂付近の小字名か谷名を聞いて、次善の策として山名とすることになる。
この結果、「平」あるいはその上流の谷の名称であった「みなご」が山名として定着した、というのが西尾の結論である。命名者とされる今西錦氏は恐らく、地元「平」で山名を採録したと思われる。西尾の説をある程度裏付けている。
以上をもって「みなご山」の名称についての筆を擱く。なお、関心のある方には西尾の「『みなご』の名称について」のコピーを送る用意がある。
(四手井 靖彦)

2011年9月24日土曜日

京一中洛北高校同窓会誌「あかね」第49号から

平成23年8月31日発行の記事より転載
「京一中ゆかりのピッケル洛北高校に寄贈」
北山の会(京一中・鴨期沂高校・洛北高校山岳部OBの会)では長年にわたり持ちつづけていた秘蔵のピッケル(仙台・山内製)を母校に寄贈することになり此度同窓会関係者立会いのもと、中村淳・北山の会世話人から洛北高校細井事務長に手渡された。今回寄贈のピッケルは、山岳人には世界的に名の知れた仙台の山内製でシャフトの鋼の部分に「仙台 山内 昭八 百五」の刻印があり、昭和8年の山内東一郎の作で製作ナンバー一〇五番と理解される。山岳会に詳しいOBによると、昭和八年製造105番というのは山内でもかなり完成度の高い製品でそれだけに登山会における「骨董」としての価値は高い、とコメントしている。昭和8年製造を購入したのは、同年以降卒業者の世代ということになる。山岳部の当時の部員一覧によると、昭和8年卒に瀧山和、9年に伊吹良太郎、10年大橋秀太郎、12年梅棹忠夫、川喜田二郎のOBの名が見られるが、この貴重なピッケルは、それ以来一中山岳部から北山の会の財産として引き継がれ此程母校に寄贈の段取りとなったもの。

崑崙未踏の頂上にたったピッケルと旗も
今回同時に寄贈されたのは京一中山岳部85周年を迎えた2000年に実現した北山の会による崑崙未踏峰への登頂計画で実際に成功して隊員により頂上に揚げたピッケルと旗。歴史的な関連部品が併せ母校に里帰りとなった。(「未踏峰への挑戦 崑崙の夢を叶える」はあかね40号所載)
の記事が写真2枚とともに掲載されている。
このピッケルは私も現役時代に使い思い出の多いもん0です。
洛北 8期 太田 亙

2011年9月22日木曜日

その後の「皆子山」



 「みなこ」か「みなご」かの問いに対して、太田亙さんから「みなご」支持の投稿があった。ブログでの反応はこの1本だけである。ブログがまだ本格的に機能していない証拠であろう。一方、私が口頭で尋ねた会員たちの反応は、オール「みなご」であった。
 この結果からは、やはり、「皆子山」は「みなご山」であると結論付けざるを得ない。今後も、正しい山名の流布と継承に務めたい。今後、もし、バスや電車の中で「みなこ山」などお抜かしになる輩がいたら、「こら、こら、ええ加減なこと言うな、それは『みなご』と言うんじゃ」と叱ることにしよう。


 (四手井 靖彦)

2011年9月21日水曜日

私は、「みなご」と教えられました。誰に教えてもらったのかは忘れましたが、みんな「みなご」山とよんでいたと思います。
洛北高校山岳部に入部して先輩に最初に連れて行ってもらった山ですから思い出も多く、その時から「みなご」山と覚えてます。
今西大先輩がご令嬢に「みなこ(皆子)」と名前を付けられたと知ったのは後のことでした。京都北山の最高峰だからその山の名前をとって「みなこ」とつけられたと聞いた時、今西大先輩の北山に対する大きな想いを持っておられるのだと感じたことを覚えています。
山の名前は、古くは陸地測量部が適当に書いた当て字が一般的な呼び名になったり、地元では違う呼び方の山が、ガイドブックで変えられたりしていることが全国的にも多くあるようです。
エベレストもチョモランマとかサガルマータなどの呼び名がある(これは国によって呼び方が違うのだが)が我々はそんなに気に留めていない。
でも、「みなご」山の呼称には拘りたい一人である。
洛北8期卒 太田 亙

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2011年8月21日日曜日

「みなこ」山か「みなご」山か

  7月の初めの土曜日、出町柳から朽木行きのバスに乗った。ザックを担いだおじちゃん、おばちゃんたちで満員だった。大方は坊村で降りた。比良に向かうように思われた。車内でおしゃべりグループの話を、聞くともなしに聞いていた。物識り顔の一人のおじちゃんが、盛んに「みなこ山」と言っていた。「それは、『みなご』と違うんけ」と、私は腹の中で考えていた。
  15日の朝日の夕刊に、「京都の皆子山 男女5人保護」という記事が載っていた。山頂近くで動けなくなり、ケータイで救助を求めたちょっととろい遭難の話である。記事中で「皆子」に「みなこ」のルビがついていた。毎日も同じだったらしい。警察がそう発表したかもしれない。今日、新聞はとても信頼できると存在とは言えないが、これらの例から察すると、世間一般には「みなこ山」が定着しているようである。どちらが正しいか、この際、調べておく必要があると思うに至った。むろん、私は「みなご」派である。
  私にどこで「みなご」が刷り込まれたか、はっきりした記憶がない。鴨沂の山岳部が「みなご」だったように思う。だから自然に「みなご」派になった。鴨沂の同期、大浦範行に聞くと、「どっちもあるが、やはり『みなご』とちゃうか」と言う。この手の話は一中山岳部に聞かねばなるまい。一中OB、北山の会事務局長の川井久造は「『みなこ』やったかな」と意外な返事であった。
 もしかすると、今西錦司が「みなご」と言っていたかもしれない。ご承知のように、この山の命名者は今西である。「皆子山、高谷山、焼杉などもやはり私どものつけた名前であるが、多少土地の人の呼称を参考にしたものである」と、今西は「山岳省察(初出:一中山岳部報『嶺』第2号)」に書いている。だが、残念ながら、読み方については記述がない。「皆子」はどうせ当て字だろうが、地元の人が山名を「みなこ」などハイカラな女性名で呼ぶだろうか。やはり田舎くさい、濁点の混じった「みなご」のほうがぴったりくる。命名者にしっかり確認しておくべきであった。
  今西が令嬢に「皆子」と名付けているのはつとに知られている。この場合はむろん、「みなこ」である。令嬢に「みなごはん」と呼んだら、きっと怒るだろう。だが、もともと「みなご」だった山名を、一部にせよ、後に「みなこ」に変えてしまったとしたら、「『悪貨が良貨を駆逐する』という言葉がある。同じ名前の山を別々に呼んでいるところがあるが、これでは恰好がつかない」と、正しい山名の統一と継承を呼びかけた今西は怒るだろう(京都府山岳連盟創立30周年記念講演、「京都北山からヒマラヤへ」)。
 ちなみに、一中山岳部報第3号「山城三十山記」上篇で皆子山を紹介している大橋秀一郎は「陸測地図上においては全くの無名峰。唯971.5米の頭といふに過ぎない。が然し、名称の由来は未だ知る所ではないが、『皆子山』と称している」とだけ書いている。一中山岳部報第3号が出たのが1934(昭和9)年12月、今西の「山城三十山」(初出のタイトルは「山城三十山の修正と拡張など」)が載った「嶺2号」の発行が同年1月だから、大橋が山名の由来をまったく知らないはずはない。それはよいとして、初めてこの山を紹介する資料には、ルビをつけておく配慮がほしかった。梅棹忠夫さんが生きてはったら、すぐ電話で聞くのだが。
 少し他の分献に当ってみた。「京都府の山」(山と渓谷社)は「みなこ」を採っている。「山城三十山」(ナカニシヤ)も同じである。ともに、根拠は示していない。一方、京都山の会の横田和雄著「京都府の三角点峰」(同山岳会出版局)は「みなご」としている。
  横田は「ミナゴ」という呼称の成り立ちは、川の上流に広がる美しい(ミ)、白いガレの見える平地(ナゴ)を指すという説や、南(ミナ)、川(ゴ)に由来する説があるという西尾寿一同会会長の説を紹介している。博識で知られる西尾の説にはそれなりの説得力がある。ちなみに、「山渓関西」(2002年5月)も「みなご」を採用している。山渓には統一性がない。
 当節、インターネットも覗いてみる必要があろう。皆子山岳会はもちろん、「Wikipedia」をはじめ、検索したうちで「皆子」にルビのついていた5,6件のすべてが「みなご」であった。もとより、多数決で決めるものではないが、こちらが圧倒的に優勢と思えるが、いかがなものか。
  さて、諸兄はこの点についてどう思われるだろうか。ぜひ、ご意見を賜りたい。もし、「みなこ」説が正しいという結論に至れば、ただちに「みなご」を捨てて、「みなこ」に転向するにやぶさかではない。
                                                (2011年8月17日)

2011年8月2日火曜日

水戸浪士の道辿る-美濃・蝿帽子嶺報告



 日程:2011年7月17~18日
 パーティー:鎌田克則、四手井靖彦
 地図:能郷白山(1/50000)

 京都東インタから名神高速に入ったのはちょうど正午だった。高速料金最高1000円は終わったらしいが、連休中とあってかなり車は多い。関ヶ原で降りて、国道21号を大垣へ。長良川手前の穂積で左折して、国道157号を北上する。根尾川沿いの道である。アユ料理の看板が多い。岐阜には、川を下るアユをヨシズの堰で捕える「ヤナ」がある。一度、「ヤナ」で一杯飲みたいと考えながら一路、能郷を目指す。
 能郷神社まで行って、その先、温見峠方面が不通とわかる。この地方には梅雨ごろに相当な水害があったようで、各地で土砂崩れによる不通区間がある。「薄墨桜」まで戻って、根尾東谷川に回り、幾つか山越えをして、目的地の大河原までは行けることがわかった。このルートは、私どもの地図には載っていない。約1時間のロスである。明るいうちに、根尾西谷のキャンプ予定地に着いた。
  前に温見峠越えをしたときは、この辺り広い河原だったと記憶する。いまは河原一面に草や木が茂り、テントを張る適地がない。水辺は大きな岩がごろごろ。この変化は、無数にできている砂防堰堤と関係ないだろうか。
 やっと、車が入れて水辺に近づける場所を見つける。だが、流木がなく、たき火ができない。山の環境も変わるものだ。暑くなく、寒くなく、快適な気温。蚊取り線香があったのに、テント内で点けなかったのと、入り口のチャックが完全に閉まっていなかったので、夜中に蚊が侵入、ブチブチに刺された。

  翌朝、テントを畳んで車に乗せ、地図上に点線で描かれている蝿帽子登山道起点付近へ移動する。上流はすぐ通行止めである。本流を渡るのに、いきなり腰までの渡渉を強いられる。水量が多い。水辺も濃いヤブ。古道の登り口に地蔵さんがあると、何かで読んでいたが、見つけるのに一苦労。コワタビ谷出合いの尾根の先端部分に、いかにもひなびた地蔵さんが鎮座していた。かつての主要道路の証である。そこからかすかに道がある。
  美濃の山には一般に登山道はない。蝿帽子峠も登山道ではなく、もともと越前と美濃を結ぶ通商路であった。越前・平泉寺が布教のため、このルートを使って多くの僧を美濃へ送ったと言われる。美濃側は「蝿帽子」であるが、越前側では「這法師」と表記する。急な坂道を法師が這って登ったのだ。「蝿帽子」の由来は、汗をかいた坊主頭に、帽子のように蝿(虻)がいっぱいたかる様である、と聞いている。蚊に刺されてもいやなのに、虻が頭にいっぱいなど、想像するだけで卒倒しそうだ。個人的には「這法師」を採りたい。
 この峠道が有名なのは、天狗党のおかげである。攘夷派の水戸藩天狗党は幕府に攘夷を迫って筑波山に兵を挙げるが幕府は動かず、逆に諸藩に討伐を命ずる。天狗党は朝廷への直訴を画策、京に向う。1864(元治元)年のことである。途中、たいした戦闘もなく美濃まで至るが長良川に陣を敷く大垣、彦根、桑名の3藩に阻まれ、蝿帽子峠を経て越前を目指す。大きく迂回して、若狭から京に入る魂胆である。
 時は師走、しかも、夜行軍である。馬や大砲、弾薬など備えた900余とも言われる軍勢がどうして雪の峠を超えられたか。「天狗勢が奇跡的に峠を越えることができたのは、いつもは五尺ほどの積雪みまわれる峠に雪がほとんどなかったからである」と、吉村昭は「天狗争乱」(朝日新聞社刊)に書いている。歴史にはほとんど関心がないが、想像力をかき立てるものがある。無事、越前入りを果たしたものの、天狗党は敦賀で待ち受けた加賀藩に降伏する。友好的投降のはずだったが、幕府は総大将武田耕雲斎ら352人を死罪、129人を島流しの過酷な刑に処した。
 歴史上の古道は、いまはほとんど名を残すのみ。ナゾは越前越えに、なぜほとんど同じ標高である西の温見峠を使わなかったかである。温見峠は鎌倉時代から通じていたと言われる。当時としては、蝿帽子峠が便利だったかもしれない。しかし、現在、蝿帽子峠が廃れ、温見峠が国道になっているのは、 当然だと思われる。

 登り初めから908mのピークまでは急登である。地蔵さんの標高が500m、一気に400m登る。ブナやナラの林である。上部に行くほどブナが多くなる。道は廃道寸前と言ってよい。初めは緩いジグザグ、尾根近くなると西側の斜面を巻く。下生えの木が茂っている。踏んで分けて、またいでくぐって進む。特に斜面についた道が悪い。尾根の上はかなりしっかりしている。908mピークは上手に西側を巻いている。ここから概ねわかりやすい山道。943mピークのてっぺんはやや広い。950m付近から道を外れ、主稜線まで一気に突き上げる。重なり合う濃いヤブ、急登。ところどころに、登山者が付けた赤いテープが巻いてある。少し東の三角点を目指す。この部分はかなりはっきりした道がある。
 三角点(1037.3m)到着、10時10分、地蔵さんが7時55分だったから、2時間15分の登り、いいペースである。猫の額ほどの山頂、視界はよくない。能郷白山も上部は雲に隠れている。ここから西に連なる越山(おやま、1129.3m)を目指す計画である。
 とりあえず、蝿帽子峠まで縦走し、改めて行動計画を練ることにする。この主稜線は想像以上に濃いヤブである。北山に比べると美濃の山はスケールが大きく、植生も異なって歩くのに難渋する。積雪のせいで、木や枝が寝ていて行く手を遮る。気がついたら、長年愛用した高度計付き腕時計がなくなっていた。ブッシュに引っかけて、バンドが切れたのだ。惜しいことをした。三角点から峠まで40分もかかってしまった。
 峠には金属製の標識があった。「這法師峠・蝿帽子峠 水戸浪士の道」と赤字で書いてある。「右下越前大野」とも。左の美濃方面については表示がない。越前側が設置したものだろう。と言っても、越前方面にも明瞭な道があるわけではない。
 蝿帽子の三角点から峠までが水平距離にして越山までの約1 /5、単純計算でここから1時間40分かかる。時に11時30分、時間的には十分ゆとりがあるが、越山からの下山ルートも確定していないので、年寄りパーティーとしては厳しいヤブ漕ぎは避けることにする。峠から往路を辿って下山することに決定。時計を失って、経過時間が即わからないのも不安材料である。
 左(南)の美濃方向に下る。地図に点線で載っている峠からのトラバース道は完全に消えている。急斜面なので、雪崩の影響もあるだろう。細道なら、路肩が崩れたら、たちまち道の形状を失う。一面のブッシュである。ほぼ等高線に沿って、三角点を目指して主稜線に取り付いた地点に戻る。11時50分。ここまで戻ると、道らしくなる。それでも、ときには見失うことがある。現在地を確認しながら慎重に下る。地蔵さんに戻ったのは2時30分であった。雨は降らなかった。
 当初、温見峠越えで帰京の予定だったが、これも不通なので往路を戻る。「薄墨桜」から馬坂峠、八草峠越えも考えたが、これも不通。徳山ダムを見たかったが残念。関ヶ原から名神高速、連休最終日で大渋滞。雨も激しく降ってきた。特に八日市-栗東間が完全な糞詰まり状態。関ヶ原から京都東まで3時かかった。
                                        (2011年7月19日、四手井 靖彦)

 この記事は7月末に投稿したつもりでしたが、ミスで掲載されていないようでした。再投稿です。

2011年7月20日水曜日

悠久のシルクロードとタクラマカン砂漠横断の旅へのお誘い 鴨6鎌田克則

 悠久のシルクロードとタクラマカン砂漠横断の旅へのお誘い

鎌田 克則

私は以前よりシルクロード、タクラマカン砂漠に関心がありました。しかし、以前カラコルムハイウェイを走って、砂漠とも瓦礫地帯ともつかぬ山地で、暑さもあって往生し、半分諦めておりました。
所がロシア、中国通の友人や、昆崙山脈に出掛けた友人等から、やはり一度は訪ぬべき所と奨められ、涼しい時期を選び、ヒマラヤ観光の大島さんのアドバイスを受け、下記のオリジナル計画を立案しました。
シルクロード(中央アジア部分)の要所、名所を訪ね、タクラマカン砂漠を縦断、一寸列車にも乗る、要はスウェン・ヘディンの「中央アジア探検」の一寸その匂を嗅ぐのです。
旅は道連れ、知った者同志丈の旅は楽しいし、それに絶好のシーズンの筈です。是非御検討下さい。

日  程2011108日(土)発 ~1016(日)着9日間

【旅行概要】 10 8() 関空~北京~ウルムチ(東京成田発着便あり)
       ※10 9() カシュガル
       ※1010() ホータン
       ※1011() 塔中(砂漠のド眞ん中)
       ※1012 () クチャ
       ※1013 () クチャ(夜行列車)
       ※1014 () トルファン
       ※1015 () ウルムチ
        1016() ~北京~関空着 (東京成田発着便あり)
  ※ タクラマカン砂漠を西から南へ2/3周して、砂漠公路、南から北へ縦断します。
   連絡頂ければ旅程詳細を送ります。

費  用】関空発 28万円程度
6人以上参加で催行、別途燃油サーチャジ・空港税要)

問合せ・申込】 ,540-0008 大阪市中央区大手前1-6-4 はなビル9F
   鎌田克則 (06(6943)4500    Ê06(6943)4580
                   MAIL : RACKAMADA@tkcnf.or.jp
                   詳しいお問い合わせは 
   ヒマラヤ観光 大島さん (06(6346)0360へ。

2011年6月18日土曜日

山行計画いろいろ
北山の台杉とホタル見物
時期:7月2日午後2時、花脊の大悲山分れ、「はしもとや」集合。広河原の下野町へ移動。徒歩で井ノ口山(779.1m)に登る。三角点近くに台杉の古木群がある。樹齢は屋久島の縄文杉より古いという説もある。上りに40~50分、杉本善夫さんの案内。5時半ごろ「はしもとや」に戻る。6時から懇親会。8時から桂川のホタルが舞い始める。問い合わせ、杉本善夫(ys3010.mt3190@ray.ocn.ne.jp)。

美濃・蝿帽子嶺(1037.3m)と越山(1129.3m)
時期:7月中旬の梅雨の晴れ間の数日
第1日、京都→(大垣回りか福井回り)→根尾西谷川小倉谷合流点付近テント泊。
第2日、小倉谷とコワタビ谷の間の尾根道から蝿帽子嶺→(越美国境尾根を縦走)→越山→小倉谷→テント地

根尾西谷から越前へ越える蝿帽子(這法師)峠は、幕末、勤皇の水戸天狗党が美濃から越前へ逃れた古道という。現在も美濃の山には珍しい山道がある。蝿帽子嶺と越山に登頂し、時間があれば、小倉谷でイワナ釣りを楽しむ。

大朝日岳(1870m)と飯豊山(2105m)
時期:8月4日~
第1日、京都→(名神・東北自動車道)→朝日鉱泉
第2日、朝日鉱泉→鳥原小屋
第3日、鳥原小屋→鳥原山 (1430m)→小朝日岳(1647m)→大朝日岳(1870m)→二股→朝日鉱泉→飯豊山麓へ移動
第4日、大日杉小屋→地蔵岳(1539m)→御坪→飯豊山(2105m)→本山小屋、あるいは切合小屋泊
第5日、下山、どこかの温泉に泊まる。

朝日連峰は10年くらい前から温めていた計画である。当初は北からの縦走を考えていたが、年齢を考慮し、朝日鉱泉からとする。せっかく山形まで行くのだから、ついでに飯豊にも登る。いずれも、問い合わせは鎌田克則まで。

紅葉を楽しむ懐かしの山めぐり
美濃から飛騨へかけての山域は、諸先輩から“若手”まで、多くの皆さんにとって懐かしの山域であろうと考えます。そこで、紅葉の時期に、それらを訪ねる先輩、“若手”交流のドライブ山行を考えました。3案あるので、参加ご希望とルートの選択をお願いします。むろん、1泊で、飲みながらの懐古談、新たなるご提案などの歓談を楽しみにしています。

プラン1:美濃 京都→(名神、北陸道)→福井→大野→温見峠→根尾→馬坂峠→徳山ダム(徳山会館泊)→冠峠あるいは高倉峠経由で北陸道、名神で帰京。徳山ダムからは揖斐川を下り、藤橋村、坂内村を経て八草トンネルから北陸道へ出てもよい。美濃から越前へ抜ける逆コースも可。日本一の徳山ダム見学と美濃の紅葉が狙い。11月初旬がベスト。徳山会館はダム見学者のための宿泊施設。

プラン2:白山、鳩ヶ湯、石徹白 京都→(名神、北陸道)→福井→大野→平泉寺→鳩ヶ湯→刈り込み池→石徹白(カルヴィラ石徹白泊)→白山神社→桧峠→白鳥→(東海北陸道、名神)→京都。大日岳登山などで懐かし石徹白の探訪。

プラン3:白川郷、新穂高温泉 京都→(名神、東海北陸道、または、北陸道、白山スーパー林道)→白川郷→天生峠→神岡→新穂高温泉(泊)。西穂ロープウエイ往復→平湯→高山(できれば、飛騨随一の展望を誇る猪臥山=1519mに登る)→飛騨清見→(東海北陸道、名神)→京都。

時期は紅葉期の10月20日から11月初旬。この時期の土日、祝日は高速道路が渋滞するので、週末前後の、例えば、日、月曜とか祝、翌日などがよいと思われる。なお、交通機関は主として車、できるだけ一つの車輌で。例えば、MKジャンボTAXI、小型チャーターバス、10人乗りレンタカー。一つの車両が無理なら、マイカー持ち寄り。 
問い合わせ、鎌田克則(RAC-KAMADA@tkcnf.or.jp)  
鎌田さんに代わって、edel-ysの四手井が投稿。

2011年6月17日金曜日

2011.5.1~5 ヘリで登る 太郎・薬師岳・北ノ俣岳 スキー行                 鴨6 鎌田克則

以前、太郎小屋等の管理に携わった友人のお誘いで、同じく5月のGW、ヘリで同ルートを滑った事がある。特に薬師沢右俣上部の豪快な滑りが忘れられなかった。
 今回は、北海道でいつもお世話になるサッポロマウンテンの石坂ガイドのお誘いである。RUWVの木村恒夫さん、湯浅修太郎さん、北山の会の上嶌秀夫さん、ゆきうさぎの松下夫妻と山内さんの計7人が同行、賑やかである。
 5月1日(日)昼過ぎ自宅よりピックアップされ一路立山山麓のロッジ太郎に集合する。

 5月2日(月)朝8時頃ロッジの車で、何やら人里離れた森林地帯へ。前回もそうであったが、要は資材運搬用の大型ヘリに乗るのだが、我々は資材扱いか、小屋のスタッフ扱いか。
 我々は一番機、8~9人単位で3~4回往復する様だ。因みに料金3万円。
 今回は窓側だったので、ぐんぐん上昇し、またたく間に雪山が足元に去って行く。これがもう少しゆっくりなら、自力で登っている感がしなくもない。本田勝一さんがそんな事を書いていた。
 正味5~7分位か。標高2,320Mの太郎小屋横に到着。ヘリは即取って返す。

太郎平到着のヘリ

 薬師、北ノ俣、黒部側の山々も見えるのだが、何だかセピア色で迫力が無い。黄砂なのだ。
 ゆっくり休んだ後、北のノ岳(2,661M)を往復する。
 下りは、昨日の雨が氷り、雪は最中状、思った程快適では無かった。

 5月3日(火)朝から晴れている。薬師岳行きだ。何やらそわそわ準備する。8時頃出発、一路北西方向へ。今日は黄砂の影響もなく、正面に薬師山塊、右に水晶、雲ノ平、鷲羽、三俣蓮華、後に、北ノ俣、黒部五郎が手に取る様だ。
 薬師峠に下り、シールを付けて薬師平経由、薬師山荘に向う。途中後方に槍、穂高がくっきり。山荘にて若干弱い人達が補助ガイドと残り、最強4人?が石坂ガイドと本峰へ。
槍ヶ岳・その右に穂高も
薬師岳は廻りがカールに囲まれ、大きくてたおやかな峰である。頂上手前の避難小屋辺りから頂上稜線は、やはり3、000Mの厳しさが窺がえた。
薬師岳頂上の祠。左は立山方面
 
  2,926M薬師頂上。所々雪が飛ばされていて神社の祠も殆ど出ている。しかし何と云ってもその先に立山、弥陀ヶ原、そして剣が堂々と望める。立山が何だか尖って見える。
シールを外して薬師の西斜面の上部の雪を拾い乍ら南にトラバース。避難小屋跡のピークを西から南に廻り込んで薬師沢右俣源頭に立つ。やっぱりガイドはここを狙っていたのだ。
 前回快適に滑った記憶があり、その時よりも技術は上達している筈と自分に云い聞かす。始めはそこそこ急斜面、それに無木立、谷底迄標高差7~800M、日本ではそうそうお目に掛かれない一枚バーンである。
 
薬師沢右俣の一枚バーン 薬師平より

ガイドが滑り出す。1人2人追いて出る。私も思い切って1回転、まずまずである。しかし数回回転すると大股がつらい。要は姿勢が引け気味の上に、回転の後部で沈み過ぎるのであろう。技術の向上より加齢による体力減が響いている様だ。数回から10回転毎に一息入れ乍ら、見る見る高度を下げる。段々雪も緩み出し、やたら暑くなる。谷も左に曲り出し斜度も落ちる。概ね標高2、200M辺りか。右斜面よりいくつかの雪崩跡あり。その辺りで大休止となる。何たって圧巻の滑り、皆満足そうである。
 その後右の急斜面を、雪崩にヒヤヒヤしながら登り、2,448Mピークの北按部に出、薬師平の西斜面をトラバース気味に滑り、薬師峠に何なく降り立つ。さすがはガイド。見事なコース取りである。
 その頃より天候悪化。吹雪気味となって来たので一直線に太郎小屋に戻る。

 5月4日(水)好天である。ガイドは北ノ俣より東北に出ている尾根を滑ろうと云う。文句なし。見渡す限り山スキーの楽園なのだ。
 北ノ俣頂上手前2、576Mの辺りより北東に滑り出す。実に滑らかな上に、時折樹林があり、全くカナディアンロッキーの雰囲気だ。自在に滑り乍ら段々高度を下げて行く。遂に薬師沢左俣出合い迄滑ってしまった。もう黒部本流も近い。
  
薬師沢左俣出合い 付近のメンバー
 
楽あれば苦あり。それから薬師峠迄ひたすら谷を登り返した。もう充分だ。そのまま小屋に戻った。
 その夜、夕食事時、ビールが振る舞われ、太郎小屋の主人他スタッフの挨拶があり、一寸したパーティとなった。何時の間にか、小屋の宿泊者も3~40人程度になっており、打保、飛越トンネルより、寺地山~北ノ俣経由で登って来た人たちも加わっていた。立派なものである。私も一度寺地山より北ノ俣を眺めた丈で、尻尾を巻いて帰った事がある。おまけに帰りのルートを誤った。

 5月5日(木)この日も好天。今日は下山の日、小屋の主人も一緒に下ると云う。
 最初の太郎兵衛平のゆるやかな斜面は西斜面なので、朝は陽が当たらずカリカリ。全く惜しい話だ。途中から緩み出し快適に滑る。折立の手前で一寸した谷に入る。我々にとって、いつもの藪山スキーの感。
 

有峰湖が見える!!

11時頃折立に着く。何と2台の車が待っている。この辺りの手配が憎い所だ。有峰湖を少々廻って有峰林道を下る。昨秋たまたま訪ねた有峰湖周辺の紅葉を思い出す。
 ロッジ太郎に戻り、風呂に入って一路大阪へ。今庄で事故渋滞には弱った。

2011年6月15日水曜日

鴨沂高校の山岳部廃止に思う
 かなり以前から気になっているのは、鴨沂高校山岳部の廃止についての経緯である。もう20年以上昔のことになるが、竹内康之君(昭45卒)が母校へ行って調べてきたことがある。1968年に廃部だったことは聞いたが、それ以上のことはよくわからない。
 登山を取り巻く環境は時代とともに変化し、山岳会も変貌した。大きな変化は、尖鋭的登山を担った学校山岳部の衰退である。戦前から著名であった大学山岳部は部員不足に泣き、廃部の危機にあるものもあると聞く。高校山岳部が衰退するのも当然であろう。
 学校山岳部が衰退したのはなぜか。パイオニアワークの終焉と無関係ではない。言うまでもなく、近代登山の根本思想は初登山にあった。1950年にアンナプルナⅠがフランス隊によって登頂されると、1953年にはエヴェレストがイギリス隊に登頂を許した。1950年代にはヒマラヤの8000m級が次々に登られ、1997年に8000m級14座の最後、ガッシャブルムが落とされ、ヒマラヤの初登攀時代は終わった。初登山を目標にした近代登山の終焉である。
 山岳会は目標を失った。学生団体は知的で、常に新しいものを目指す方向性を持っていると言ってよい。彼らにとって、初登山は極めて魅力的な目標であった。単なる山岳逍遥なら、ワンゲルと変わらない。山岳部そのものが存在理由を失った。これが、高校も含めた学校山岳部衰退の背景にある。
 高校山岳部の衰退には、もう一つ大きな要素があった。それは遭難の増加である。ヒマラヤの黄金時代は同時に登山ブーム時代の始まりであった。日本隊のマナスル登頂も大きな影響があり、中高年が登山を始めるきっかけともなった。当然、遭難も増加した。高校生の遭難死も避けて通れなかった。
 登山は危険であるという考えが、学校当局や教育委員会、文部省といった機関の主流になり、高校生の登山活動にブレーキがかかることになった。学校行事としての登山活動中の死亡事故には、賠償責任が伴うからである。2011年5月に北山で会った元洛北高校山岳部顧問の村上宅也さんが証言した。「高校山岳部の廃止は、当時の文部省の方針だった。特に、冬山は厳禁であった」。鴨沂高校の廃部がこの方針の路線上にあったことがわかる。

 筆者が駆け出しの新聞記者だったのは、経済の高度成長期の始まったころで、建設、開発事業に火がつき、ダンプカーが走り回り、死亡事故が急増した。その取材に走り回った。もう一つ、小学校にプールができて、体育の授業に水泳が行われるようになった。たまに児童の水死があった。サツ回り記者として、そんな取材にも行った。
 担当の教諭が言った。「もう、水泳の授業はやりたくありません」。情けないヤツだと、腹の中で思った。むろん、事故はない方がよい。学校は事故防止に万全を期すべしである。だが、学校に限らず、人間社会において、どんなスポーツでも、100%の無事故はあり得ないのだ。教師たるものは不幸な事故に遭遇すれば、二度と事故は起こさない誓いとその方策、それを乗り越える気概というものが必要なのではないか。
 登山には危険な要素があるかもしれないが、自然に親しむという意味で、いい趣味であり、クラブ活動としても適切であるはずだ。遭難を恐れる、上からの通達があるからと、簡単に廃部してしまうのはいかがなものか。廃部に同意する教師は、水泳の授業を拒否する小学校の教師と同じ、情けないヤツである。教育者としての資質を疑う。
 高校の山岳部がヒマラヤへ行った例はあるが、一般に、高校生がいきなりヒマラヤの未踏峰を目指すわけがない。たいてい近くの低い山から始め、在学中にはせいぜい3000mクラスの夏山までではないだろうか。
 山に登るということは、頂を目指すと同時に自然に親しむことである。自然の恩恵、四季それぞれの景色の移り変わりに接し、豊かな情操を育むことになる。自然保護、自由の思想も身につく。また、登山は強靭な精神も養う。困難に立ち向かう勇気と気概が求められる。自立の精神もまた培われる。山登りは人様について行けばいいというものではない。チームワーク、組織というものがわかる。義務と責任の観念が理解できるようにもなる。
 学校のクラブ活動として、これほどいいものはない。むろん、他のスポーツ、スポーツ以外の文化部の活動も悪くない。それぞれの存在理由がある。だが、危険だからと、あっさりと山岳部を廃止してしまってよいものだろうか。
 恐らく、廃部した学校には、顧問となるべき優れた指導教師がいなかったのだ。教育委員会に飼いならされた事なかれ主義、何にでもビビってしまう弱虫教師しかいなかったのではないか。日の丸に敬礼!と言われればペコペコ頭を下げ、君が代斉唱!と言われれば、嬉々として唱和する輩であろう。こんなのに、登山指導ができるわけがない。

 卒業生として、鴨沂の山岳部廃止は残念に思う。OB会「北山の会」の人材供給にも支障がある。だが、しょうがないかな、という気分も打ち消せない。未来永劫にわたって不変の価値などあり得ない。登山界が変われば山岳会も変わるのだ。学校山岳部が廃れ、高校山岳部が廃止に追い込まれるのも、一つの時代の流れかもしれない。
 かつて京都の北山を跋渉した高校生に代わって、アウトドアショップで買いそろえたコスチュームに身を固めた中高年のおじさん、おばさんが跋扈する。流行りの「山ガール」スタイルもいるぞ。登山の俗化などとは言うまい。いつの時代にもビギナーは存在するのだ。
 三高山岳部報告第5号(昭和2年1月)にこう書いてある。「…道路を改修したので、今では貴船神社の前まで乗合自動車が行く様になった。それとともに近来は鞍馬、貴船に遊ぶペデストリアンの数が非常に増加してきて、遂に幽邃な貴船川の風致を『枝折取るべからず』などと書いたペンキ塗りの制札によって傷けしめるに至った…」。
 小豆坂から柳谷峠。魚谷峠へ向かう人たちのメインルートである。夏山シーズンを迎えた日曜日なら、登る人、降りてくる人にしばしば出くわす。登山人口が増えるのは必ずしも悪いことではない。大いに山を楽しむがよい。だが、一つだけお願いがある。どうか、ゴミだけはほかさんと、持って帰っておくれやす。

                           (2011年5月27日、四手井 靖彦)

2011年6月2日木曜日

2011.4.17(日)死に物狂いで登ったホハレ峠より蕎麦粒山(1,292m)               鴨6 鎌田克則

 蕎麦山、その急峻さと藪で鳴らした山である。片やホハレ峠も、嘗ての徳山郷より戸入、門入を経て川上に至る峠。一説に『頬が腫れる』の名から付いたと云われる程の厳しい峠である。
 一昨年残雪期、隣の土蔵岳に登った時、ホハレ峠とその上に秀麗な蕎麦山を見せ付けられ、弥が上にも登行欲をそそられた。
 積雪期、無雪期の偵察から、距離が有り過ぎて、ホハレ峠辺りに前進キャンプが必要と考えていた。
 4月17日(日)、好天が予測され、前週の金糞岳の快調さから、一度蕎麦山にラッシュを掛けてみようとなり、朝5時前車で自宅を飛び出し、又小林さんをピックアップ。名神、北陸、木ノ本、八草トンネルを抜け川上へ。坂内川の右股左岸300M進んで残雪でストップ。(7:30)躊躇なく林道を辿る。時速3KM、休まず進めば稼げるものだ。
 2度目のターンの先には、前週登った金糞岳の北面が輝いていた。ホハレ峠手前の3度目のターンの後、2つ目の北向きの谷に突っ込む。(9:30)始めは雪で埋められていた谷も、間もなくズタズタに。右の枝尾根にかじり付き、ひたすら上へ。1時間半の苦闘の末 948稜線に達す。(11:00)そこは雪庇の張り出し部分が崩落して歩き易そうな尾根。それに蕎麦山の三角垂の端正な姿がドーンと現れる。何とか射程距離に納まりそうだ。

 

ピークの麓迄1時間、(12:00)ピークの登りに1時間と踏んだが、近付くにつれ、これから登る、頂上より南西に伸びる急峻な尾根は、日当りが良いのか斑である。事実突っ込んで見ると、猛烈な藪と大きな雪塊が交互に立ちはだかる。藪の下には踏足があるが、直ぐ雪の下に消える。格闘する事小一時間、頂上方向を見るとまだまだ。又小一時間してもう頂かと上を見ても全く同じ姿。

要は稜線は放物線形をしていて、登っても登っても上が出て来るのである。苦闘する事2時間。それも尽きる時が来た。その先には、見慣れた越美国境の山々が並ぶ。頂上である。何と尖った雪庇の矛先、カメラを撮ろうにも怖くて突き刺したピッケルから手が放せない。跨るしか無い。恐る恐る小林さんと頂上交替。(14:00)
後は一目散。何とか明るいうちに林道に達したい。元来たルートを必死に戻る。よく見れば数米はあろうかと思われる雪庇が続く。

次々と分岐を確かめ、当初突っ込んだ谷の上部に達す。藪が出だすとルートが解らぬ。所が用心深い小林さんは黄色の目印を付けていた。
これが非常に役立つ。右か左か迷っている閑は無い。下って下って下る。しかし林道が出て来ない。ルートを誤ったか。否黄色の目印がある。
暮れ泥む頃林道が現れた。(18:30)何とか帰れる。腹に何か入れるか。いや見える間は少しでも進もう。日が暮れる。ヘッドライトを出す閑も気力も無い。ひたすら歩む。先に発電所らしいシルエットが見え、突如白い我がレガシーがそこにあった。(19:30)
 何と朝7:30分ここを出て、帰って来たのが19:30分。殆ど休まず実動12時間。唯々蕎麦山の頂上に達しがたい為。これが本当の山登りなのだ。
それから2時間半運転して家に帰った。(ドライバー私のみ)何と全長17時間のアルバイト。75才にして我ながら殊勲甲。

 

2011年5月28日土曜日

病魔に襲われました

3月27日、今季最後の雪山を楽しもうと近くの上世屋高原を山仲間と共に出かけたが、歩きだす直前になって、突然、胸と背中が痛みだし呼吸困難となった。友人に頼み救急病院へ急行。その結果、大動脈解離B型と診断されICUへ直行。1週間ほど意識が殆どなかったらしいが、1ケ月ほどで退院し、現在自宅で高血圧の(130以下)管理、動脈硬化の予防で減塩食、軽作業1時間以内、ショックを受けない生活の維持などを医師から指示されている。この病気は一生傷で、安静にしていても再発することもあるそうだ。
発病から2ケ月になるが入院時から服薬している薬の量や種類が変わらぬことを考えるとあまり好くなっているとは思えない。
今回の病気でラッキーだったのは、発病場所が駐車場であり、友人が直ぐに救急病院に運んでくれたこと、救急病院が近くにあったこと、救急当番の医師が循環器内科の専門医だったこと、解離した場所が大動脈の下部で、解離腔が血栓性閉鎖であり、外膜組織が大きくならなかったこと等偶然と言えぬぐらい多くの幸運が重なって助かったことだ。
 本来なら、当日は、鎌田さん達と冠山を目指すはずだったのだが計画が中止になり、仕方なく近くの山に変更したのが幸いだったようだ。知らない土地で、病院の場所も分からず、山の中で搬出に時間がかかったり、専門医がいなかったら助からなかったかもしれない。
 当分、少なくともここ1年以上は山歩きはできないようだが、そのうちにと思っているが、女房は、これを機会に、山の道具をチャリティーにでも出したらというが、昔から使ってきた門田のピッケルなど簡単に手放す気にはなれない。せめて、北山荘行ける日が早く来てほしいと思っている。
洛北8期 太田 亙

2011年5月24日火曜日

                         クリンソウに異変

 5月15日に北山荘へクリンソウを見に行った。4月24日の北山荘の集いに行ったときは、まだ咲いていなかった。ことしは寒さで、山野草の開花が1週間から10日くらい遅れているようだ。北山荘で竹内康之君に会った。「五葉ケ谷のクリンソウが変でっせ、花が落ちている」と教えてくれた。
 小舎の橋に防腐剤を塗ってから五葉ヶ谷へ向かった。ここには昔からの群落地がある。「三高山岳部報告」か一中山岳部報告「嶺」の古い号で、群落地のことが書いてあったのを読んだことがある。大正末期か昭和の初めごろの話である。
足を踏み入れて驚いた。花がない。よく見ると、ちぎれて落ちている。葉も心なしか元気がない。どうしたことか。少し上の群落は株が少なく、地肌が見えている。かつては一面の花畑だった。何が起きたのか。
 日曜とあって、魚谷登山の人たちが三々五々通り過ぎる。「クリンソウが変ですね」と言っている。「鹿のせいです」と、したり顔に言う人も。この人によると、鹿は花や葉は食べず、茎だけ食べるそうである。だから、花が落ちている。
 ほんまやろか。鹿説には疑問なしとしない。鹿はクリンソウを食べないと聞いている。だから、北山にクリンソウが残っているのだ。ササユリなど、とっくに絶滅した。それに、鹿だとしたら、すべてのクリンソウの茎がやられるはずである。花が落ちているのは五葉ヶ谷だけなのはなぜか。北山荘周辺も、クラガリあたりもクリンソウは健在である。鹿がエリアによって食の選り好みするだろうか。
 インターネットで調べてみると、奥日光ではクリンソウの群落に、鹿の食害防止のネットが張ってあると書いてある。ただし、このクリンソウは野生種ではなく、持ち込まれた外来種が広がったものだという。写真を見ると、白やピンクが混じっており、明らかに、北山にあるものとは別種である。別のコーナーには、鹿はクリンソウを食べない、とある。野生種は食べず、外来種は食べるのだろうか。
 私は鹿の食害説を信じていない。去年まで見事な群落だったのに、急に鹿の嗜好が変わって茎を食べ始めるはずがない。他に原因があるはずである。傾斜地の株が少ないのは、大雨で表層が流されたかもしれない。花が落ちているのは、信じたくないが、誰か悪いヤツが、棒でたたき落としたのではないだろうか。クリンソウは実生で芽を吹くのか、それとも地下で越冬した根茎から生えてくるのか。実生なら、もう、咲かないかもしれない。ことしは一時的な異変であってほしい。来年、また群落地の花が復活することを強く願う。

 山シャクヤクはやや盛りを過ぎたがあちこちで咲いていた。北山荘のそばでは、一輪だけ咲いていた。山桜は散った後だった。洛北の山岳部の顧問をしていたという人に会った。名前は失念した。5年前に定年退職したそうだ。      (2011年5月18日、四手井 靖彦)

2011年4月29日金曜日

このごろ
 edel-ysの「ヤーさん」です。ニャンコさんのご指導で、やっと自分でブログに投稿できるようになりました。もう、相当にボケていますので、なかなか難しいです。今後とも、よろしくお願いいたします。

 24日、北山荘の集いに行きました。鎌田会長以下、十数人の参加でした。まだちょっと寒く、山桜のつぼみは固く、山シャクヤクもつぼみが一つついているだけでした。クリンソウも開花はまだ先です。4月7日に芦火谷の上流、二ノ谷に竿を出そうと車を走らせましたが、尾越を過ぎると、道路上に30センチばかりの雪があり、Uターンしました。
暖冬と言われようになる前は、そんなもんだったかもしれませんが、暖冬に慣れると、この季節の残雪の多さに驚きます。高校へ入った年の3月末は、二ノ谷は全面の雪でした。ことしは冬が寒く、春も遅いようです。14日に佐々里のハナノ木谷(703.8m)に登りましたが、尾根筋にまだ残雪がありました。

北山荘のメインディッシュは焼きそばでした。賄は前夜から泊まり込みの「棟梁グループ」、鶏ガラでスープをとった、本格的な味でした。多雪で、屋根が少しずった、と言う話でした。この冬は80センチくらいの積雪があったそうです。山野草大好き、という山ガールが独り現れ、いろいろ取材していました。

ことしは、北山荘70周年だそうです。事務局で、秋に記念のイベントを考えてもらっています。よいアイディアがあればご提案ください。来年の会報のテーマは「北山荘の70年」に決まりです。みなさまの北山荘への想いの投稿を期待しています。

太田副会長のお見舞いに行きました(22日)。極めて元気です。ただし、1年くらいの安静と養生が必要だそうです。来春は北山荘で会えるでしょう。1日も早いご快復を。

崑崙隊員だった堀江徹雄さん(鴨沂36卒)が4月13日に亡くなりました。崑崙隊員では河端繁さんに次いで2人目、ご冥福を祈ります。

雪が融けると、まぶしいような新緑の山。いろいろご計画があるでしょう。老体でも行けるような計画があれば、声をかけてください。

石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも (『万葉集』巻第八)
(2011年4月28日、四手井 靖彦)

2011年4月16日土曜日

上西勝也さんの「山城五十山」を紹介します

上西勝也さんといっても北山の会で彼を知っているのは森山英隆氏くらいでしょう.

彼は鴨沂第9期卒です.高校時代山には登ってなかったようですが,卒業後,同志社大学工学部・電気工学科に進み登山を始めました.また,同学科の友人たちと工学部のなかに「岳稜会」という登山サークルをつくりました.私が彼を知ったのは同志社大学在任中このサークルの顧問をしていたからです.

彼は実によく山に登り,登山記録をきちんと残し,山の歴史を調べています.もっともよく歩いているのは北山ですが,その足跡は日本中におよびます.彼の2つのホームページを読まれることをお勧めします.

1.山城五十山
2.史跡と標石で辿る日本の測量史
http://uenishi.on.coocan.jp/

(西邨顕達)