2011年10月19日水曜日

岳人11月号

「岳人」11月号の北山特集は愚生も読みました。筆者の竹内康之君から連絡をいただきました。桟敷岳は高校時代以来、ご無沙汰でしたが、2年前に利尻へ行くトレーニングの一つとして登りました。北山では最近、登った部類です。北山には、未踏の三角点がほとんどなくなりました。
 北山荘周辺は北山の会のルーツ、一中山岳部の大先輩らの揺りかごの地で、初代北山の小舎跡、今西記念碑、北山荘を3点セットにした「山岳史跡公園」として現状保存できれば、と考えています。
 北山特集の文中に、森本次男さんのことを「北山の父」と書かれている部分がありましたが、この点に関しては、いささか疑問を感じています。京都の登山家の系譜は二通りあって、一つは今西さんを中心とする一中、三高の流れです。これを一中系としておきましょう。もう一つは小谷隆一さんを中心とする流れで、私はこれを府岳連系と名付けています。それぞれ独自の活動をしてきました。森本さんは府岳連系と言ってよいでしょう。ニ商出身かニ商の先生だったか、小谷さんとの結びつきは強いと思われます。
 だが、こと北山に関しては、歴史的かつ実践的に、一中系が大きな役割を果たしてきたと考えています。森本さんは「京都北山と丹波高原」を著し、北山登山の普及に貢献したと言えますが、その著作は一中山岳部の「山城三十山記」からの剽窃が多いと、梅棹さんは終生、怒りの覚めることがありませんでした。このことはさておいても、森本さんに「北山の父」の尊称がふさわしいかどうかは、検証するべき課題だと思います。
 「比良の父」と言われた人もいました。この人が京阪電鉄の武奈ヶ岳周辺開発にお墨付きを与え、どれほど比良の自然破壊に加担したかは知る人ぞ知る事実です。森本さんには竹内君が付与したわけではありませんが、「○○の父」などという尊称は、安易に人に与えるものではないと、かねがね考えています。
 竹内君は鴨沂の22期で、一緒に山にも登っています。かなり昔の話ですが、美濃の屏風、左門に登りました。本職はデザイナーで、北山の会が発刊した一中山岳部史「行く手は北山その彼方」の装丁も手掛けてもらいました。どういうわけか、数年前に退会しています。残念です。いつか、復帰を期待しています。
                                         (四手井 靖彦)

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