2012年5月21日月曜日

帆船「あこがれ」航海記 鎌田 克則

4月22日~26日 大阪市所有
帆船「あこがれ」航海記(博多港~長崎帆船祭りパレード参加)

帆船、私はこれを見ると、あの大航海時代を思わずに居られない。アメリカ東海岸でメイフラワー号の実物レプリカを見た時、鳥海山山麓のにかほ市の公園で、白瀬中尉の南極探検船「開南丸」の実物大の遊具を見た時、よくぞこんな小さな船でと思ったものだ。
4月初め頃大阪港WTCを訪ねる機会があり、偶然大阪市所有の帆船「あこがれ」が繋留されているのに出合い、中を覗かせて貰った。恥ずかしながら、私はこれまでその存在すら知らなかったし、帆船なんて10年程前、大阪港の帆船祭りを岸壁より見て以来のこと、ただしっかりパンフレットだけは握って帰った。
そして開いてみれば『小学校4年生以上なら誰でも乗船できます』いくら捜しても年齢制限が無い。まさかと思いつつ、大阪湾内コースばかりの中に、『長崎帆船祭りに参加しよう(3泊4日)』と言うのがあり、駄目元で申込用紙に記入送付した。10日ぐらい経ち忘れていたら、突然「セイル大阪」と言う所より封書が届く。開ければ乗船許可。何百人の申込者から抽選で当たったのかと問い合せたら、35名募集に対したった8名の応募との由、笑ってしまう。
さてその航海の概要は、4月23日(月)9時半博多港集合出航、玄界灘に出、壱岐水道,五島灘経由長崎に至る3泊4日の帆船の旅である。 
ちなみに帆船「あこがれ」の概要は、3本マスト、トップスルスクーナー型、総帆13枚、362t、航海速度8.5ノット、乗組員10名、訓練生40名、世界一周もしているなかなかの船である。
勿論、何もお客さんとして乗る訳でなく
あくまで訓練生。毎日6時15分起床、甲板を磨き、ブリーフィング、帆を引っ張り、マストに登り、掃除をやり、食事の始末等々、その上色々帆船に関する研修がある。全く年齢は考慮されず、どちらかと言うと小中学生扱いで、結構ハードである。
正直長崎で下船した時やれやれと思った。ただ参加者8名に対し、ボランテイアトレーナー7名、クルー10名、総員25名であるから、余裕があり、皆親切なので助かった。
何もかも初めての事で驚くことばかりだが、日常は概ね船員の訓練生活であるので、特に驚いたこと、思った事を次に記します。
(1)帆船における帆を張る,畳むと云うのは物凄く大変な作業なのだ。帆を一枚張るのに先ず捲いてある帆を外しに登り、それから一つ一つのロープを10人以上で引っ張るのである。山ほどロープがあって、どれを引っ張ればどうなるかは、勿論乗組員の指示に従うのだが、信じられないくらい面倒なのだ。実際を言えば、3泊4日の航海で帆を張ったのはたった2枚で、現実に帆で走ったのは2~3マイル,風が弱かったせいもあるが,全行程の98%はエンジンで走ったのであり、帆は正直お飾りのようなものであった。帆を全部張って走るのは、我々練習生の居る所では、無理なのではないか。ましてや嵐の中での帆の上げ下ろしは想像を絶する。それを考えると大航海時代の帆船は、気の遠くなるほど危険で大変な作業の上での航海だったのだ。 

(2)船と言うものは密室である。そこに大勢の
人が長期で生活する。その点全く野外とは違う。野外でも長期ともなれば、トラブルが起こる。ましてや狭い船内で皆好き勝手をやれば想像がつく。よって全て理屈抜きに細かい厳密な規律がある。例えば毛布の畳み方にもルールがある。
 それに船は階級社会と聞く。
今回は練習船なので、全く和気合い合いだったが、実際の船はそうでなければ持たぬと思う。それと衛生面の管理の厳しさに驚いた。考えれば無理も無い話し。

(3)二日目夜2時間当直に立った。先ず艦橋に立つと内も外も真っ暗である。丁度平戸、佐世保沖,五島列島との間の島のごろごろある間を抜ける。しかも他の高速の船も行き交う。緊張せざるを得ない。
先ず現在位置の確認。黒いカーテンの内側で、15分おきに,GPSの記録を固定する。船長の指導の下、海図に大きな定規を二つ使って東経00分、北緯00分と現在位置を記入する。船長が予め引いた線とのずれを割り出し、操舵者(これも訓練生)に修正を伝えるのである。山でしょっちゅうやっている事ではあるが、全く船では要領が違う。
実はオリエンテーリング用の磁石を持参しテストした。全く役に立たない。第一廻りは鉄だらけ、とんでもない方向をさす。羅針盤はではどうするのか。船長に寄れば、初めから船ごとに調整されているとか、今は全てGPSとレーダー、それに海底までの深さも自動的に測られている。
    次に操舵を担当。後ろから00度と言ってくる。それを復唱し、自動車のハンドルと似たものをそっとその方向に舵を切る。五度以上は駄目で、自動車のハンドルとおなじで、そのままにしていると廻ってしまうので直ぐ又元に戻す。そのタイミングが難しい。勿論目指す方向と現実の船の方向とのずれは、大きなメーターにピリピリと出る。それでも船の目指す位置と15分おきの現在位置とはずれる。風で流がされたり、海流の影響もあるのであろう。それにレーダーに映る他の船も気を配らなければならない。
船長は海の男らしく実に魅力的且つ親切な人で、一生懸命教えてくれるし、どんな質問にも気良く答えてくれた。暇なときはいつでも艦橋を訪ねてくれと云われたが、邪魔になってはと思い遠慮した。今から思えば惜しい事をしたと思う。これが最も貴重な体験となった。 

(4)帆船祭りのパレードに参加するのは実に楽しい。本来帆船は見るものとも聞くが、帆船に乗ってパレードに参加するのはやはりわくわくする。色々旗を靡かせ,他の帆船と共に順番に入港する。岸壁には大勢の人が手を振る。こちらも船首から一列に並んで帽子を振り、敬礼でそれに応える。祭りの御輿に乗っているようなものだ。
下船後パレードに参加した6隻の帆船を見て廻った。日本丸とロシアのパラダという船が一番大きく立派だが,韓国のコリアナ号も個性的、みな着飾っている。帆船は見た目が勝負と聞かされていたが、全くその通りである。

(5)参加者8名の内、若いのは大学生一人、あとは50歳以上、私(76歳)より上と思われる人も一人居て、平均すれば65歳~70歳ぐらいか。それに殆どがリピーターなのだ。
                船は小学校4年生を標準に設計されている
                             と聞く。それがなんとマニアックな爺婆ばかりが乗っているのだ。
               何故子供たちが喜んで乗らないのか。
帰って家内に話したら、わが孫でも乗らないという。家内が言うには、先日新幹線で中学生の修学旅行生と乗り合わせた時、先生が「おーい富士山が綺麗にみえるぞ!!」と大きな声で言っているのに、皆ゲームに夢中で、誰一人外を見る者が居なかったと言う。やんぬるかなである。

   (6)今回、帆船に乗ること自体が目的であったが、それは大航海時代を一寸でも体験したかったからである。エンジンも、レーダーも、GPSもない時代に、羅針盤と六分儀だけで、まだ地球が丸いと解りながらも、確証のない時代に、風だけが便りで、手探りで大海原を出掛けて行ったのである。そのパイオニアー精神と言うか、航海者の勇気に感嘆せざるを得ない。

(7) 船内に色々の帆船に関する本があり、大航海時代のものを少々読んだが、その中で特に印象に残った事は二つである。
   一つは大航海者として名を残した人は、なべて悲劇的な死に方をしているか、晩年不遇である事である。
これについて、いささか年代が違うが、思えばあの小さな帆船、南極探検船、開南丸を操って南極に向かった白瀬中尉の晩年が悲劇的だったことを思うと、彼もまた過去に名を成した航海者がそのような運命を辿ることを承知していて、敢えてそれを甘受したのではないかと思えることである。
   二つ目は、大航海時代に使われた舟の大きさである。帰って一寸ネットで調べてみた。当時の名たる代表的な船を挙げれば、
①コロンブスが黄金の国ジパングを夢見て、大西洋を西に向かい、なんと西インド諸島に達したサンタマリア号120t~180t 1492
②初めて喜望峰を廻りインドに達したバスコ、ダ、ガマのサンガブリエル号 178t 1495
③マゼランがマゼラン海峡を通って大西洋に出て、船長は途中で死んだが、船は世界一周したトリニーダ号 110t 1520
④ピューリタンの人々が、初めてアメリカ大陸に渡ったメイフラワー号 180t 1620
⑤キャプテンクックがあちこち発見して廻ったエンデバー号370t 1768
 ⑥白瀬矗が南極に向かった開南丸199t、但し後付けエンジン18馬力 1910
要は私の云いたいのは、大航海に使われた船は、私の乗った帆船『あこがれ』362tの概ね半分かそれ以下、クックのエンデバー号のみが同程度、但しクックは概ね大陸の状態が解ってからのことを思うと、それ以前のアメリカ大陸の存在もわからない、勿論喜望峰も、マゼラン海峡も発見もない時代の探検船が、如何に小さいことか。
もし乗合船か釣り船、小さなフェリーでも乗る機会があれば、そのトン数を聞いて、大航海時代世界を廻った船が概ね100t~200tの船だとして、比較して欲しい。
    それと今日本に二代目「しらせ」という12、500tの南極探検船があるが、当初の船が199tの中古の帆船で、後から125ccのバイク程度のエンジンを付けただけの船だった事、その隊長白瀬矗が、その探検の借財4万円?を、その後一生掛かって返済した事、加えて終戦直後、彼は全く省みられることなく、栄養失調同然で亡くなられたことが忘れられない。

さて高々362tの帆船に、34日乗っただけで、結論を出すわけではないが、気持ちとしては、私は海向きではなくて、陸向きと思う。
 船と言っても段々あるが、先ずクルーズと言われる5~10万トンの豪華客船については、究極の旅といわれて、バンクーバー~アラスカ往復とか、バルト海横断とか乗ってみたが、まるでラスベガスの豪華ホテルに居るのと同じ、ギャンブル、グルメ、ダンス好きでもない限り、全く退屈である。海は何処も同じなのだ。
 それより小さい3千~2万トンクラスだと、概ね目的地に行く為の船で、長くて1昼夜、物珍しいうちに着くので、一寸非日常的な過ごし方が出来る点,たまに乗るのも良い。
 それより小さい何百トンの船は、せいぜい3日が限度だ。海に直に接する点はワイルドで楽しいが、あの狭い船室に長時間閉じ込められるのは辛い。特に揺れでもしたら、やはり大変。
 結局、私が一番好むのは、新日本海フェリーで北海道に向かう道中、特に共同風呂に入って、窓から海を眺めるぐらいが一番性にあっているようだ。

(完) 

2012年5月15日火曜日

日本山岳会退会の弁 四手井 靖彦


     
331日付で日本山岳会に退会届を出した。このことについて、何の音沙汰もないが、受理されているはずである。普通の組織なら、「受理しました」と連絡があるものだ。1978年の入会、会員番号8423、いまではかなりの古株である。思えば30年を過ぎる長い付き合いであった。

 入会の経緯は別のところで書いているので、詳しくはそちらに譲る。今西錦司氏の薦めであった。日本山岳会のようなレベルの高い山岳会に、尖鋭的登山もやったことがない一介のヤブ山愛好家が入会することはあり得ないと、当時は考えていた。今西氏は会長も務めた人物である。この人の推薦があるなら、と入会した。

 入会した以上、それなりの活動をした。あるとき、今西氏に呼びつけられ、京都支部の設立に参画することになった。これも別に書いているので、詳細は省く。設立までの準備、その手続きを全部私がやることになった。先輩格の岐阜支部を訪ね、その手順を教わり、東京の事務局と連絡を取りながら、19863月に立ち上げた。

 そのころ、京都には意気と熱意があふれていたように思う。設立して間もないころ、全国支部大会の開催を引き受け、比良を舞台に成功させた。参加した会の幹部から、「京都は注目されている」と聞いた。言ってみれば、日の出の勢いのようなものだった。



 支部設立を主導した今西氏は19926月、他界した。パイオニアワークの時代が終わり、登山界は曲がり角に差し掛かっていた。今西氏が京都支部を興したのは、そうした認識があったからである。地元の京都から、新しい時代を築こう、との構想があった。ただ、今西氏の支部を託す人選には間違いがあった。名伯楽も晩年は目に曇りがあった。

 生前の今西氏から、「陰謀団体たれ-支部設立の構想」という原稿を託されていた。原文は広告の紙の裏に鉛筆書きされたものである。しばらく温存していたが、「京都支部だより27号」-今西氏追悼号に掲載した。

 「私はいまから60年前のことを考えている…」から始まり、日本におけるヒマラヤを目指す近代アルピニズムの勃興、そしてマナスル登山をもってそれを担った学校山岳部時代は終わった、と今西氏は書いているのである。さらに、「ひそかに登山界の将来を憂い、この際、京都にJACの支部を設立し、京都という都市を基盤として沈滞の中から、もう一度往年の意気を恢復することを念願とし、伝統の護持、後継者を育成することを念願としている」と、支部設立の真意を明かしている。つまり、「陰謀団体たれ」とは、京都に新しい山岳会を設立し。時代に即した新しい登山家を育てよ、という趣旨なのである。

 私は事務局を担当していた。未熟な支部だが、今西氏の言葉通り、京都から新たな情報を発信し、登山界の新たな世論形成に一石を投じたいと考えていた。「支部便り」を登山の総合誌に育てる、と公言していた。かつて、「ケルン」というレベルの高い山岳雑誌があった。秘かにそれを夢見ていた。

 だが、結論から言うと、支部にはそういう雰囲気が育たなかった。新しい支部についての今西氏の理念や理想を理解できる者がいなかった。私は松山に赴任し、2年間、京都を離れた。その間に、創設時の熱意や意気がしぼんでしまった。度し難いポピュリズムの世界に堕ちていく一方であった。 

 改革をしなければならないと考えた。改革なきところに進歩はないと、常に考えて生きてきた。支部長交代を機にその具体的行動を起こしたが、また、その野望は潰えた。支部には改革の意思はまったくなく、特定の人物を中心にしたサロン化への傾斜を一層深めるだけであった。役員の固定化、それらの支部私物化が最大の問題点であった。この悪弊にくさびを打ち込むことができなかったとき、支部への決別の時を悟った。

 自分の限界を知ったこのとき、日本山岳会も退会するべきだったかもしれない。だが、すぐには辞められない事情があった。入会したころは京都に支部はなく、岐阜支部に所属した。松井辰彌氏、高木碕男氏ら歴代支部長と親しくさせてもらい、いろいろお世話になった。この方たちが健在な間は、退会できないと考えていた。



今西氏が憂いていたように、京都支部だけではなく、日本山岳会そのものが衰退していた。日本山岳会は由緒ある、伝統ある山岳会である。初登山時代が終わった後、目標を失ってそのステータスが揺るぎ始めていると感じることが多くなった。日本山岳会は何を目指しているのか、何をやろうとしているのかわからなくなった。漫然と時流に流され、明確な意思を失い、その輝きを失っていった。

私は「近代アルピニズムを超える方向は何か」と、幾つかの問題点を提起したことがある(20077月日本山岳会会報「山」No.746)。だが、反応を示したのは本多勝一氏だけであった。山岳界が登山の形而上学的問題に無関心、不感症になったと感じた。

本多氏も会報に「『創造的登山(パイオニアワーク)』と日本の登山界」のタイトルで日本山岳会への提言をしている(No.74)。本多氏はその中で、著書からの引用として、登山界がこのように奇形化し、文化し、老衰期にはいったのは、なぜだろうか。それはエベレストが処女峰でなくなったからである、と書いている。



日本山岳会のどこに問題があるのか、以下に愚考する。かつて日本山岳会は単一の山岳会であった。目的や理念といったものを共有し、遠隔地にあっても、会員間にある程度の親交があったはずである。マナスルのころ、会員の一人ひとりが、この登山を支えている、といった意識があったはずである。いま、新しく入会する人は何を目的とし、どのような活動をしようと考えているのだろうか。ただ、「JAC」のバッジがほしいだけか。

支部の活動が活発化してきた。このことが即、不適当であるわけではない。中央集権的組織が必ずしもベストとは限らない。ただ支部がそれぞれ勝手な動きをして、相互の交流が薄く、一体感がないと感じられる。私自身は北海道や九州の支部とも個人的交友があったが、いま、遠隔地の支部間でどれほど交流があるのか。

同じ山岳会の会員ならすべて、同じ権利と義務を有しているはずである。支部がそれぞれ独自に勝手なことをやるというところに、単一の山岳会の運営上問題がある。例えば支部の企画に、他支部からいつでも参画があってもよいと考える。

日本山岳会は単一の会として、設立時から支部の存在を想定していない。関西支部は地方の一支部ではなく、西の拠点としての存在であった。だから、日本山岳会には恐らく府県単位の支部に関する規約というものがないのではないか。この点についても、以前に幹部の1人に進言したことがある。

日山協という組織がある。都道府県の山岳連盟の寄り合いである。日本山岳会は限りなく日山協に近づいている、という気がする。同じような組織が二つはいらない。かつて尖鋭的、指導的立場にあった日本山岳会は、いまや、地方の社会人山岳会の寄り合い世帯に過ぎない。



近代アルピニズムの根底思想はパイオニアワークとアマチュアリズムにある。処女峰がなくなって、パイオニアワークの道は閉ざされた。替わって、スポーツ化と商業主義が台頭した。商業主義はテレビと密接な関係がある。

処女峰がなくなったので、次に狙うのはバリエーションルート、アルパインスタイル、無酸素といったよりスポーツ的傾向であった。また、テレビの影響で商業主義が強く表れた。登山の職業化である。これはアマチュアリズムの崩壊を意味する。登山を続けることでマスコミの脚光を浴び、生計をたてるという人々が多く現れた。

ヨーロッパにラインホルト・メスナ―という登山家がいる。8000m14座にすべて登った男である。毀誉褒貶激しいと聞くが、私はメスナ―を秘かに尊敬している。オリンピックの“愚物”サマランチが特別メダルをやる、と言ったとき、メスナ―は何と応えたか。「登山はスポーツではないからいらん」だったのだ。世俗を嫌うこの一言は、十分に傾聴すべき価値がある。「むしろ、芸術に近い」と言ったとも伝えられる。

メスナ―は少し遅れて世に出た登山家である。処女峰時代は終わっていた。だから、無酸素とか、単独登攀というスポーツ的登山に向かわざるを得なった。そのメスナ―にして、「登山はスポーツではない」と言わしめたのは何か。私はそこに、ヨーロッパに深く根付いた近代アルピニズムの矜持を見る思いがする。日本とヨーロッパの思考の違いといったものも感じてしまうのだ。

 親しい友人の前芝茂人氏から、かつてスイス山岳会についての知見を得たことがあるので紹介する。登山先進地のヨーロッパと日本の、登山についての思考の違いを痛感する。前芝氏は小学館でスイス山岳研究財団が出す「マウンテン・ワールド」の日本版編集をしていたことがある。1982年にスイスを訪ね、同会幹部のA・エグラーと打ち合わせをしたとき、エグラーはこう語ったという。「1960年代でスイス山岳会の役目は終わった。『マウンテン・ワールド』も1969年までで廃刊したのだ」。1960年はスイス隊の二つ目の8000m峰、ダウラギリ登頂の年代を意味するのかもしれない。時代の変化をはっきりと認識している。前芝氏は一つの見識と思ったと、いまになって思い返す。



 スイスの貴族ド・ソシュールがモンブランに登って近代アルピニズムに火をつけたのは1787年、難攻不落のマッターホルンがイギリス人、エドワード・ウインパーによって登られたのが1865年である。この間に、ヨーロッパ各国で登山活動の花が開いた。

一方、日本において、ウオルター・ウエストンの前穂高登頂(1893年)を近代アルピニズムの開花とするなら、ド・ソシュールとの間に約100年の差がある。列強入りを目指して欧米の技術、文化を取り入れようとしていた明治期の日本人は、ハイカラな登山にもいち早く目をつけた。1905年には日本山岳会が興り、1956年にはヒマラヤのジャイアンツ、マナスル初登頂の栄誉を掌中に収めるに至った。恐らく、関連する人口、その実績において、日本は世界を代表する登山国であろう。だが、昨今の登山界の変貌に対処する姿勢には、彼我に著しい違いが見られる。それはヨーロッパと日本の、近代アルピニズム100年の歴史の差によものではないだろうか。メスナ―の登山感にも、それを強く感じるのである。



スポーツ化と相まって、登山界変貌のもう一つの大きな柱が商業化である。商業化にはテレビが大いにかかわっている。1988年に日本山岳会が行った日本、中国、ネパール3国によるエベレスト交差縦走は、実はテレビ局の企画であった。もともと東海支部が温めていたプランに、日本テレビ局が開局何周年かの企画として便乗したと言われる。

映像を見た。極端に言えば、主役は登山隊ではなく、撮影を指揮したテレビディレクターであった。テレビ局から中国当局への根回しがあり、中国から強力な働きかけがあったと聞いている。

この登山には批判もあり、当時の副会長が会報に、「中国の提案による、この計画が、幾多の曲折と、戸惑いの末、JACが受け入れざるを得まい、と、半ば屈折した思いを抱きながら承認した」と書いている。貴重な反省である。この反省がその後どう生かされたかは検証されねばなるまい。

今西氏も書いているように、日本においてはマナスル登頂で一つの時代が終わったのである。だが、日本山岳会にはいまだにその認識がない。無定見にスポーツ化、商業化を受け入れ、近年は「山の日」制定などの茶番に血道をあげている。1365日が「山の日」であるはずの登山家にとって、たった1日の「山の日」に何ほどの意味があるのか。

スポーツ化、商業化を排除せよ、と主張しているわけではない。山は好きなように登ればよい。だが、近代アルピニズムを標榜してきた山岳会にあっては、そこに一線を画してほしいと思うだけである。時代が変わった、従って、日本山岳会も方針を変更する、といったメッセージが必要である。



19965月のエベレストで起きた大量遭難を扱った「空へ」と「デスゾーン」の2冊の本を読んで、ヒマラヤ登山のあまりの変わり様に驚いた。商業公募隊がアマチュアに近い人たちを連れて世界最高峰に挑む。シェルパが後ろから尻を押し、前からザイルで引っ張るなどのサポートで、大金持ちのニューヨークの社交界の花形女性を、8840mまで引き上げてしまうのだ。

いろんなことを考えさせられる。装備の驚くべき進歩。かのマロリーも現代の装備なら、駆け足で頂上まで往復するかもしれない。シェルパたちの経験と高い技術。そして、何よりも登山形態の変化。世界の金持ちには、セブンサミッツを目指すものも多いという。「空へ」の著者、ジョン・クラカワーはそう書いている。

近代登山開花の舞台になったモンブランもマッターホルンも初登山の対象だった。ヒマラヤしかりである。近代アルピニズムの信奉者はすべて登山のパイオニアワークを目指した。しかし、商業公募隊を初め各国から次々登山隊が送りだされ、ヒラリーステップで順番待ちをした後でしか頂上へ向かえないエベレストの現状を見ると、登山のパイオニアの時代は終わったと深く実感する。

ヒラリーとテンジンが一歩一歩ルートを切り開いていった初登頂と、シェルパの張ったフィックスザイル頼りに登るのとは全然、意味がちがうのだ。それは仕方がない。初登頂は一度しかないのだから。

いつかは来る道であった。だからと言って、登山をやめてしまう必要はない。山がある以上、そこに登る人はなくなるまい。それはそれでよい。ただし、登山を続けるなら、第二登、第三登に甘んじなければならない。これも仕方がない。だが、これまで近代アルピニズムを信奉し、その実践を目指してきた人たちはどうするのか。

「これまでは近代アルピニズム精神に順応した初登山主義でしたが、時代が変わったので方針を変更せざるを得ません」との、組織としての表明がなければ無節操でないか。くどいようだが、山岳会としての総括が必要である。

なぜ山に登るのか。「そこに山があるから」と、マロリーが答えたという。本多勝一氏によると、正しくは「そこに未踏のエベレストがあるから」と解釈するべきだという。未踏峰こそ、登山家の心を揺り動かす原動力だったのだ。

少し大げさに言えば、「未踏への誘惑」こそ、人類の発展に貢献するエネルギーの根源であった。地球が丸いことは、それに捉われた勇気ある航海者によって証明された。科学技術も芸術上の発展も、ある意味では「未踏への誘惑」の生み出す結果であろう。



「未踏への誘惑」は「知的好奇心」と言ってもよい。登山が探検と同様に知的行為と言われた所以である。登山から「未踏への誘惑」がなくなったとき、何が起きたか。大学山岳部の衰退である。大学生こそ、知的好奇心の実践者であろう。大学山岳部の衰退は、初登山の終焉、登山界の変貌と表裏一体の関係にある。登山界に大きな変化が起きていたのである。だが、体制のなかに、それを正視する者がいない。

登山を愛好するすべてが未踏峰を目指していたわけではない。だが、登山行為の本質には必ず未知なるものへの誘惑が秘められていた。同じ山ばかり登っている人がいる。「百名山」の愛好家は一巡すると、また、一から登り始めるという。別に非難はしないが、この手の人たちには「未踏への誘惑」がない。登山は遠足や普通の旅行と同じなのだ。

同じ山に二度登るより、できれば知らない未踏の山に登りたい。これが、内なるパイオニアワークではないだろうか。より高く、より未知な山を目指す、それがヒマラヤの未踏峰への憧憬につながっていくのだ。これが近代アルピニズムの精神だった。

こうした問題が日本の代表的な山岳会である日本山岳会で、これまでのところ論議されたという話を聞いたことがない。残念ながら、初登山主義の終焉と新たな時代への展望と見解は一度も聞いたことがない。日本山岳会はマナスル登頂の過去の栄光にしがみつき、マナスルの頚木から脱することができないように見える。マナスルは過去の遺産なのだ。登山界はこれからどう生きるかの道筋を示してほしい。

いたずらに過去の栄光にしがみつき、その栄光に泥を塗るより、潮時を見て解散するのが賢明であろう。傷つきながら生き延びて、無残な姿をさらすのを見るに忍びない。



商業化という大きな波に、近代アルピニズムが飲みこまれていく。高山にケーブルやロープウエイ、ドライブウエイがつくられる。立山の室堂をハイヒールの女性が闊歩する。そのうち、ヘリコプターでエベレストの山頂に立てる日が来るだろう。こうした登山界の変貌に、どう対処していいかわからないのが日本山岳会である。知恵がない。優れた指導者がいない。従って、展望が生まれない。

「訴え、日本山岳会の行く末を憂えて」と題する、同山岳会執行部に対する一会員の批判文書を読んだことがある。一口に言って、事務局の硬直化、執行部の方向性の定まらない運営に対する批判である。日本山岳会の現状について、批判的な会員がいることがわかる。潜在的批判者はかなりの数に上るだろう。なお、この文書が一部で「怪文書」と呼ばれているらしいが、怪文書ではない。怪文書とは、出所を明らかにしない無責任文書のことである。「目的を失った組織が宿命的にたどる道が硬直化、独善、私物化である」と前芝氏は喝破している。

 

本多氏の退会を会報の2月号で知った。前芝氏も退会届を出したと聞いている。前芝氏はこう言っている。「組織というものは、志や目標を失うと。まことに見苦しい姿を現わします」。同感である。本多氏とはまだ話をしていないが、同じ考えではないかと推察する。今西氏なく、岐阜の松井、高木両氏も彼岸の人となった。日本山岳会とつながっていた細い糸が切れた。もう未練はない。「山の日」制定が終わったら、その後、何をするのか。行き先を失った“迷走列車”はどこへ向かうのか。それだけが気がかりである。
                                 (2012429日)

日本山岳会退会の弁 四手井 靖彦

2012年5月9日水曜日

やっと登れた 積雪期 冠山登頂記 鎌田 克則


積雪期の冠山(1256m)が何故通算5度、今シーズンだけで3度(別に偵察一度)もアッタックしなければ登れないのか。一口で言うと、常に天候が悪い、アプローチが長い〔林道の除雪状況が掴めない〕雪の状態が読めない(多いと雪崩、少ないと薮)事にある。それ等を上手くクリアーできるかが決め手なのだ。
 4月15日好天の報により、満を持して出発、今回は小林さんに加えて北山の会の上嶌さんも参加、一路通いなれた冠林道へ。これまでより除雪が進み4つのトンネルを抜け、まだ2kmほど先まであっさり到着、大助かりだ。
 早速林道を進む。さすが前回より20日経っているので、林道の雪も少なく、右岸からの雪崩の危険も余り感じられず、快調に進む。2時間強で916尾根の取り付き地点に到着(17.45)。雪上にテントを張る。要は前回の時間切れを避けるために万全を期し、テント地を進めたのである。
翌16日、5時45分アイゼン装着、尾根に取り付く。取り付きやすいルンゼがあるのだが、何時上から何が落ちてくるか、前回何度も肝を冷やしているので、雪壁と土壁の間を薮とアイゼンの出っ歯を頼りにしゃにむに登る。数十メートルで尾根らしきものに達し、それを辿れば前回ルート乗る。後はただただ登るだけ。
 天候は予報に反し曇り。上部は雲で見えぬ。
前回引き返し地点8時通過。やっと今度こそ登れると言う確信を得る。やや痩せ尾根を越え、いよいよ越美国境稜線臭い。何とガスの中に薮の稜線が見えるではないか。雪庇どころか雪が飛ばされて無いのである。そしてガスの中で何も見えぬが、先に雪原が現れ冠平に達したようだ。
前方の急斜面に向かう。この上部が冠頂上の筈。やがて薮交じりの中に夏道が見える。間違いなし。雪が切れ、アイゼンをガチャガチャ言わせながら夏道を左に進むと、そこが全く雪の無い頂上だった。(9,25~10,05) 三角点がむき出し、別に立派な碑もある。それにしてもこの岩峰をどうして登ろうかと考えていたのに、あっけないものだった。
 まずはめでたし、めでたし。ああこれでもう登らなくて済む。なんだかエベレストに登った人が吐く言葉を実感。
 何も見えないのは残念だが、雨が降るよりまっし。互いに写真を撮ったりしてゆっくりする。(9・25~10,05)
 下りは夏道から雪の急斜面に移る辺りのみ慎重に、あとは一目散、専ら自分等の踏み後を辿る。そして最後の林道に下りる急斜面、ひどい所を下ることになった。要は雪面が硬く、土壁のホールドが少なく、薮に掴まりながら半分滑り落ちた。ヒマラヤのサーミッターたる上嶌さん曰く。「こんな怖い山知らん」。
テント地に戻り、幕営用具を担ぎ、歩く事2時間、車のデポ地点に16時。山中では冠荘で風呂でも入ってと云う話もあったが、何故か早く家に帰りたかった。せっかく積雪期の冠に登れたのに。
これで積雪期夜叉が池~冠間縦走する計画は一部途切れましたが、主たる山は全部登れたので、歳を考えこの辺りで良しとします。

2012年5月1日火曜日

皆様へ

春山はいかがでしたでしょうか? 私も里山を一人でボチボチ歩き始めました。手始めに大江山へ挑戦したいと思っていますが、いつ頃になることやら・・・。皆さんと御一緒できるように、のんびり、じっくり、確実にトレーニングしていきます。 

八期 太田 亙