2011年8月21日日曜日

「みなこ」山か「みなご」山か

  7月の初めの土曜日、出町柳から朽木行きのバスに乗った。ザックを担いだおじちゃん、おばちゃんたちで満員だった。大方は坊村で降りた。比良に向かうように思われた。車内でおしゃべりグループの話を、聞くともなしに聞いていた。物識り顔の一人のおじちゃんが、盛んに「みなこ山」と言っていた。「それは、『みなご』と違うんけ」と、私は腹の中で考えていた。
  15日の朝日の夕刊に、「京都の皆子山 男女5人保護」という記事が載っていた。山頂近くで動けなくなり、ケータイで救助を求めたちょっととろい遭難の話である。記事中で「皆子」に「みなこ」のルビがついていた。毎日も同じだったらしい。警察がそう発表したかもしれない。今日、新聞はとても信頼できると存在とは言えないが、これらの例から察すると、世間一般には「みなこ山」が定着しているようである。どちらが正しいか、この際、調べておく必要があると思うに至った。むろん、私は「みなご」派である。
  私にどこで「みなご」が刷り込まれたか、はっきりした記憶がない。鴨沂の山岳部が「みなご」だったように思う。だから自然に「みなご」派になった。鴨沂の同期、大浦範行に聞くと、「どっちもあるが、やはり『みなご』とちゃうか」と言う。この手の話は一中山岳部に聞かねばなるまい。一中OB、北山の会事務局長の川井久造は「『みなこ』やったかな」と意外な返事であった。
 もしかすると、今西錦司が「みなご」と言っていたかもしれない。ご承知のように、この山の命名者は今西である。「皆子山、高谷山、焼杉などもやはり私どものつけた名前であるが、多少土地の人の呼称を参考にしたものである」と、今西は「山岳省察(初出:一中山岳部報『嶺』第2号)」に書いている。だが、残念ながら、読み方については記述がない。「皆子」はどうせ当て字だろうが、地元の人が山名を「みなこ」などハイカラな女性名で呼ぶだろうか。やはり田舎くさい、濁点の混じった「みなご」のほうがぴったりくる。命名者にしっかり確認しておくべきであった。
  今西が令嬢に「皆子」と名付けているのはつとに知られている。この場合はむろん、「みなこ」である。令嬢に「みなごはん」と呼んだら、きっと怒るだろう。だが、もともと「みなご」だった山名を、一部にせよ、後に「みなこ」に変えてしまったとしたら、「『悪貨が良貨を駆逐する』という言葉がある。同じ名前の山を別々に呼んでいるところがあるが、これでは恰好がつかない」と、正しい山名の統一と継承を呼びかけた今西は怒るだろう(京都府山岳連盟創立30周年記念講演、「京都北山からヒマラヤへ」)。
 ちなみに、一中山岳部報第3号「山城三十山記」上篇で皆子山を紹介している大橋秀一郎は「陸測地図上においては全くの無名峰。唯971.5米の頭といふに過ぎない。が然し、名称の由来は未だ知る所ではないが、『皆子山』と称している」とだけ書いている。一中山岳部報第3号が出たのが1934(昭和9)年12月、今西の「山城三十山」(初出のタイトルは「山城三十山の修正と拡張など」)が載った「嶺2号」の発行が同年1月だから、大橋が山名の由来をまったく知らないはずはない。それはよいとして、初めてこの山を紹介する資料には、ルビをつけておく配慮がほしかった。梅棹忠夫さんが生きてはったら、すぐ電話で聞くのだが。
 少し他の分献に当ってみた。「京都府の山」(山と渓谷社)は「みなこ」を採っている。「山城三十山」(ナカニシヤ)も同じである。ともに、根拠は示していない。一方、京都山の会の横田和雄著「京都府の三角点峰」(同山岳会出版局)は「みなご」としている。
  横田は「ミナゴ」という呼称の成り立ちは、川の上流に広がる美しい(ミ)、白いガレの見える平地(ナゴ)を指すという説や、南(ミナ)、川(ゴ)に由来する説があるという西尾寿一同会会長の説を紹介している。博識で知られる西尾の説にはそれなりの説得力がある。ちなみに、「山渓関西」(2002年5月)も「みなご」を採用している。山渓には統一性がない。
 当節、インターネットも覗いてみる必要があろう。皆子山岳会はもちろん、「Wikipedia」をはじめ、検索したうちで「皆子」にルビのついていた5,6件のすべてが「みなご」であった。もとより、多数決で決めるものではないが、こちらが圧倒的に優勢と思えるが、いかがなものか。
  さて、諸兄はこの点についてどう思われるだろうか。ぜひ、ご意見を賜りたい。もし、「みなこ」説が正しいという結論に至れば、ただちに「みなご」を捨てて、「みなこ」に転向するにやぶさかではない。
                                                (2011年8月17日)

2011年8月2日火曜日

水戸浪士の道辿る-美濃・蝿帽子嶺報告



 日程:2011年7月17~18日
 パーティー:鎌田克則、四手井靖彦
 地図:能郷白山(1/50000)

 京都東インタから名神高速に入ったのはちょうど正午だった。高速料金最高1000円は終わったらしいが、連休中とあってかなり車は多い。関ヶ原で降りて、国道21号を大垣へ。長良川手前の穂積で左折して、国道157号を北上する。根尾川沿いの道である。アユ料理の看板が多い。岐阜には、川を下るアユをヨシズの堰で捕える「ヤナ」がある。一度、「ヤナ」で一杯飲みたいと考えながら一路、能郷を目指す。
 能郷神社まで行って、その先、温見峠方面が不通とわかる。この地方には梅雨ごろに相当な水害があったようで、各地で土砂崩れによる不通区間がある。「薄墨桜」まで戻って、根尾東谷川に回り、幾つか山越えをして、目的地の大河原までは行けることがわかった。このルートは、私どもの地図には載っていない。約1時間のロスである。明るいうちに、根尾西谷のキャンプ予定地に着いた。
  前に温見峠越えをしたときは、この辺り広い河原だったと記憶する。いまは河原一面に草や木が茂り、テントを張る適地がない。水辺は大きな岩がごろごろ。この変化は、無数にできている砂防堰堤と関係ないだろうか。
 やっと、車が入れて水辺に近づける場所を見つける。だが、流木がなく、たき火ができない。山の環境も変わるものだ。暑くなく、寒くなく、快適な気温。蚊取り線香があったのに、テント内で点けなかったのと、入り口のチャックが完全に閉まっていなかったので、夜中に蚊が侵入、ブチブチに刺された。

  翌朝、テントを畳んで車に乗せ、地図上に点線で描かれている蝿帽子登山道起点付近へ移動する。上流はすぐ通行止めである。本流を渡るのに、いきなり腰までの渡渉を強いられる。水量が多い。水辺も濃いヤブ。古道の登り口に地蔵さんがあると、何かで読んでいたが、見つけるのに一苦労。コワタビ谷出合いの尾根の先端部分に、いかにもひなびた地蔵さんが鎮座していた。かつての主要道路の証である。そこからかすかに道がある。
  美濃の山には一般に登山道はない。蝿帽子峠も登山道ではなく、もともと越前と美濃を結ぶ通商路であった。越前・平泉寺が布教のため、このルートを使って多くの僧を美濃へ送ったと言われる。美濃側は「蝿帽子」であるが、越前側では「這法師」と表記する。急な坂道を法師が這って登ったのだ。「蝿帽子」の由来は、汗をかいた坊主頭に、帽子のように蝿(虻)がいっぱいたかる様である、と聞いている。蚊に刺されてもいやなのに、虻が頭にいっぱいなど、想像するだけで卒倒しそうだ。個人的には「這法師」を採りたい。
 この峠道が有名なのは、天狗党のおかげである。攘夷派の水戸藩天狗党は幕府に攘夷を迫って筑波山に兵を挙げるが幕府は動かず、逆に諸藩に討伐を命ずる。天狗党は朝廷への直訴を画策、京に向う。1864(元治元)年のことである。途中、たいした戦闘もなく美濃まで至るが長良川に陣を敷く大垣、彦根、桑名の3藩に阻まれ、蝿帽子峠を経て越前を目指す。大きく迂回して、若狭から京に入る魂胆である。
 時は師走、しかも、夜行軍である。馬や大砲、弾薬など備えた900余とも言われる軍勢がどうして雪の峠を超えられたか。「天狗勢が奇跡的に峠を越えることができたのは、いつもは五尺ほどの積雪みまわれる峠に雪がほとんどなかったからである」と、吉村昭は「天狗争乱」(朝日新聞社刊)に書いている。歴史にはほとんど関心がないが、想像力をかき立てるものがある。無事、越前入りを果たしたものの、天狗党は敦賀で待ち受けた加賀藩に降伏する。友好的投降のはずだったが、幕府は総大将武田耕雲斎ら352人を死罪、129人を島流しの過酷な刑に処した。
 歴史上の古道は、いまはほとんど名を残すのみ。ナゾは越前越えに、なぜほとんど同じ標高である西の温見峠を使わなかったかである。温見峠は鎌倉時代から通じていたと言われる。当時としては、蝿帽子峠が便利だったかもしれない。しかし、現在、蝿帽子峠が廃れ、温見峠が国道になっているのは、 当然だと思われる。

 登り初めから908mのピークまでは急登である。地蔵さんの標高が500m、一気に400m登る。ブナやナラの林である。上部に行くほどブナが多くなる。道は廃道寸前と言ってよい。初めは緩いジグザグ、尾根近くなると西側の斜面を巻く。下生えの木が茂っている。踏んで分けて、またいでくぐって進む。特に斜面についた道が悪い。尾根の上はかなりしっかりしている。908mピークは上手に西側を巻いている。ここから概ねわかりやすい山道。943mピークのてっぺんはやや広い。950m付近から道を外れ、主稜線まで一気に突き上げる。重なり合う濃いヤブ、急登。ところどころに、登山者が付けた赤いテープが巻いてある。少し東の三角点を目指す。この部分はかなりはっきりした道がある。
 三角点(1037.3m)到着、10時10分、地蔵さんが7時55分だったから、2時間15分の登り、いいペースである。猫の額ほどの山頂、視界はよくない。能郷白山も上部は雲に隠れている。ここから西に連なる越山(おやま、1129.3m)を目指す計画である。
 とりあえず、蝿帽子峠まで縦走し、改めて行動計画を練ることにする。この主稜線は想像以上に濃いヤブである。北山に比べると美濃の山はスケールが大きく、植生も異なって歩くのに難渋する。積雪のせいで、木や枝が寝ていて行く手を遮る。気がついたら、長年愛用した高度計付き腕時計がなくなっていた。ブッシュに引っかけて、バンドが切れたのだ。惜しいことをした。三角点から峠まで40分もかかってしまった。
 峠には金属製の標識があった。「這法師峠・蝿帽子峠 水戸浪士の道」と赤字で書いてある。「右下越前大野」とも。左の美濃方面については表示がない。越前側が設置したものだろう。と言っても、越前方面にも明瞭な道があるわけではない。
 蝿帽子の三角点から峠までが水平距離にして越山までの約1 /5、単純計算でここから1時間40分かかる。時に11時30分、時間的には十分ゆとりがあるが、越山からの下山ルートも確定していないので、年寄りパーティーとしては厳しいヤブ漕ぎは避けることにする。峠から往路を辿って下山することに決定。時計を失って、経過時間が即わからないのも不安材料である。
 左(南)の美濃方向に下る。地図に点線で載っている峠からのトラバース道は完全に消えている。急斜面なので、雪崩の影響もあるだろう。細道なら、路肩が崩れたら、たちまち道の形状を失う。一面のブッシュである。ほぼ等高線に沿って、三角点を目指して主稜線に取り付いた地点に戻る。11時50分。ここまで戻ると、道らしくなる。それでも、ときには見失うことがある。現在地を確認しながら慎重に下る。地蔵さんに戻ったのは2時30分であった。雨は降らなかった。
 当初、温見峠越えで帰京の予定だったが、これも不通なので往路を戻る。「薄墨桜」から馬坂峠、八草峠越えも考えたが、これも不通。徳山ダムを見たかったが残念。関ヶ原から名神高速、連休最終日で大渋滞。雨も激しく降ってきた。特に八日市-栗東間が完全な糞詰まり状態。関ヶ原から京都東まで3時かかった。
                                        (2011年7月19日、四手井 靖彦)

 この記事は7月末に投稿したつもりでしたが、ミスで掲載されていないようでした。再投稿です。