鴨沂高校の山岳部廃止に思う
かなり以前から気になっているのは、鴨沂高校山岳部の廃止についての経緯である。もう20年以上昔のことになるが、竹内康之君(昭45卒)が母校へ行って調べてきたことがある。1968年に廃部だったことは聞いたが、それ以上のことはよくわからない。
登山を取り巻く環境は時代とともに変化し、山岳会も変貌した。大きな変化は、尖鋭的登山を担った学校山岳部の衰退である。戦前から著名であった大学山岳部は部員不足に泣き、廃部の危機にあるものもあると聞く。高校山岳部が衰退するのも当然であろう。
学校山岳部が衰退したのはなぜか。パイオニアワークの終焉と無関係ではない。言うまでもなく、近代登山の根本思想は初登山にあった。1950年にアンナプルナⅠがフランス隊によって登頂されると、1953年にはエヴェレストがイギリス隊に登頂を許した。1950年代にはヒマラヤの8000m級が次々に登られ、1997年に8000m級14座の最後、ガッシャブルムが落とされ、ヒマラヤの初登攀時代は終わった。初登山を目標にした近代登山の終焉である。
山岳会は目標を失った。学生団体は知的で、常に新しいものを目指す方向性を持っていると言ってよい。彼らにとって、初登山は極めて魅力的な目標であった。単なる山岳逍遥なら、ワンゲルと変わらない。山岳部そのものが存在理由を失った。これが、高校も含めた学校山岳部衰退の背景にある。
高校山岳部の衰退には、もう一つ大きな要素があった。それは遭難の増加である。ヒマラヤの黄金時代は同時に登山ブーム時代の始まりであった。日本隊のマナスル登頂も大きな影響があり、中高年が登山を始めるきっかけともなった。当然、遭難も増加した。高校生の遭難死も避けて通れなかった。
登山は危険であるという考えが、学校当局や教育委員会、文部省といった機関の主流になり、高校生の登山活動にブレーキがかかることになった。学校行事としての登山活動中の死亡事故には、賠償責任が伴うからである。2011年5月に北山で会った元洛北高校山岳部顧問の村上宅也さんが証言した。「高校山岳部の廃止は、当時の文部省の方針だった。特に、冬山は厳禁であった」。鴨沂高校の廃部がこの方針の路線上にあったことがわかる。
筆者が駆け出しの新聞記者だったのは、経済の高度成長期の始まったころで、建設、開発事業に火がつき、ダンプカーが走り回り、死亡事故が急増した。その取材に走り回った。もう一つ、小学校にプールができて、体育の授業に水泳が行われるようになった。たまに児童の水死があった。サツ回り記者として、そんな取材にも行った。
担当の教諭が言った。「もう、水泳の授業はやりたくありません」。情けないヤツだと、腹の中で思った。むろん、事故はない方がよい。学校は事故防止に万全を期すべしである。だが、学校に限らず、人間社会において、どんなスポーツでも、100%の無事故はあり得ないのだ。教師たるものは不幸な事故に遭遇すれば、二度と事故は起こさない誓いとその方策、それを乗り越える気概というものが必要なのではないか。
登山には危険な要素があるかもしれないが、自然に親しむという意味で、いい趣味であり、クラブ活動としても適切であるはずだ。遭難を恐れる、上からの通達があるからと、簡単に廃部してしまうのはいかがなものか。廃部に同意する教師は、水泳の授業を拒否する小学校の教師と同じ、情けないヤツである。教育者としての資質を疑う。
高校の山岳部がヒマラヤへ行った例はあるが、一般に、高校生がいきなりヒマラヤの未踏峰を目指すわけがない。たいてい近くの低い山から始め、在学中にはせいぜい3000mクラスの夏山までではないだろうか。
山に登るということは、頂を目指すと同時に自然に親しむことである。自然の恩恵、四季それぞれの景色の移り変わりに接し、豊かな情操を育むことになる。自然保護、自由の思想も身につく。また、登山は強靭な精神も養う。困難に立ち向かう勇気と気概が求められる。自立の精神もまた培われる。山登りは人様について行けばいいというものではない。チームワーク、組織というものがわかる。義務と責任の観念が理解できるようにもなる。
学校のクラブ活動として、これほどいいものはない。むろん、他のスポーツ、スポーツ以外の文化部の活動も悪くない。それぞれの存在理由がある。だが、危険だからと、あっさりと山岳部を廃止してしまってよいものだろうか。
恐らく、廃部した学校には、顧問となるべき優れた指導教師がいなかったのだ。教育委員会に飼いならされた事なかれ主義、何にでもビビってしまう弱虫教師しかいなかったのではないか。日の丸に敬礼!と言われればペコペコ頭を下げ、君が代斉唱!と言われれば、嬉々として唱和する輩であろう。こんなのに、登山指導ができるわけがない。
卒業生として、鴨沂の山岳部廃止は残念に思う。OB会「北山の会」の人材供給にも支障がある。だが、しょうがないかな、という気分も打ち消せない。未来永劫にわたって不変の価値などあり得ない。登山界が変われば山岳会も変わるのだ。学校山岳部が廃れ、高校山岳部が廃止に追い込まれるのも、一つの時代の流れかもしれない。
かつて京都の北山を跋渉した高校生に代わって、アウトドアショップで買いそろえたコスチュームに身を固めた中高年のおじさん、おばさんが跋扈する。流行りの「山ガール」スタイルもいるぞ。登山の俗化などとは言うまい。いつの時代にもビギナーは存在するのだ。
三高山岳部報告第5号(昭和2年1月)にこう書いてある。「…道路を改修したので、今では貴船神社の前まで乗合自動車が行く様になった。それとともに近来は鞍馬、貴船に遊ぶペデストリアンの数が非常に増加してきて、遂に幽邃な貴船川の風致を『枝折取るべからず』などと書いたペンキ塗りの制札によって傷けしめるに至った…」。
小豆坂から柳谷峠。魚谷峠へ向かう人たちのメインルートである。夏山シーズンを迎えた日曜日なら、登る人、降りてくる人にしばしば出くわす。登山人口が増えるのは必ずしも悪いことではない。大いに山を楽しむがよい。だが、一つだけお願いがある。どうか、ゴミだけはほかさんと、持って帰っておくれやす。
かなり以前から気になっているのは、鴨沂高校山岳部の廃止についての経緯である。もう20年以上昔のことになるが、竹内康之君(昭45卒)が母校へ行って調べてきたことがある。1968年に廃部だったことは聞いたが、それ以上のことはよくわからない。
登山を取り巻く環境は時代とともに変化し、山岳会も変貌した。大きな変化は、尖鋭的登山を担った学校山岳部の衰退である。戦前から著名であった大学山岳部は部員不足に泣き、廃部の危機にあるものもあると聞く。高校山岳部が衰退するのも当然であろう。
学校山岳部が衰退したのはなぜか。パイオニアワークの終焉と無関係ではない。言うまでもなく、近代登山の根本思想は初登山にあった。1950年にアンナプルナⅠがフランス隊によって登頂されると、1953年にはエヴェレストがイギリス隊に登頂を許した。1950年代にはヒマラヤの8000m級が次々に登られ、1997年に8000m級14座の最後、ガッシャブルムが落とされ、ヒマラヤの初登攀時代は終わった。初登山を目標にした近代登山の終焉である。
山岳会は目標を失った。学生団体は知的で、常に新しいものを目指す方向性を持っていると言ってよい。彼らにとって、初登山は極めて魅力的な目標であった。単なる山岳逍遥なら、ワンゲルと変わらない。山岳部そのものが存在理由を失った。これが、高校も含めた学校山岳部衰退の背景にある。
高校山岳部の衰退には、もう一つ大きな要素があった。それは遭難の増加である。ヒマラヤの黄金時代は同時に登山ブーム時代の始まりであった。日本隊のマナスル登頂も大きな影響があり、中高年が登山を始めるきっかけともなった。当然、遭難も増加した。高校生の遭難死も避けて通れなかった。
登山は危険であるという考えが、学校当局や教育委員会、文部省といった機関の主流になり、高校生の登山活動にブレーキがかかることになった。学校行事としての登山活動中の死亡事故には、賠償責任が伴うからである。2011年5月に北山で会った元洛北高校山岳部顧問の村上宅也さんが証言した。「高校山岳部の廃止は、当時の文部省の方針だった。特に、冬山は厳禁であった」。鴨沂高校の廃部がこの方針の路線上にあったことがわかる。
筆者が駆け出しの新聞記者だったのは、経済の高度成長期の始まったころで、建設、開発事業に火がつき、ダンプカーが走り回り、死亡事故が急増した。その取材に走り回った。もう一つ、小学校にプールができて、体育の授業に水泳が行われるようになった。たまに児童の水死があった。サツ回り記者として、そんな取材にも行った。
担当の教諭が言った。「もう、水泳の授業はやりたくありません」。情けないヤツだと、腹の中で思った。むろん、事故はない方がよい。学校は事故防止に万全を期すべしである。だが、学校に限らず、人間社会において、どんなスポーツでも、100%の無事故はあり得ないのだ。教師たるものは不幸な事故に遭遇すれば、二度と事故は起こさない誓いとその方策、それを乗り越える気概というものが必要なのではないか。
登山には危険な要素があるかもしれないが、自然に親しむという意味で、いい趣味であり、クラブ活動としても適切であるはずだ。遭難を恐れる、上からの通達があるからと、簡単に廃部してしまうのはいかがなものか。廃部に同意する教師は、水泳の授業を拒否する小学校の教師と同じ、情けないヤツである。教育者としての資質を疑う。
高校の山岳部がヒマラヤへ行った例はあるが、一般に、高校生がいきなりヒマラヤの未踏峰を目指すわけがない。たいてい近くの低い山から始め、在学中にはせいぜい3000mクラスの夏山までではないだろうか。
山に登るということは、頂を目指すと同時に自然に親しむことである。自然の恩恵、四季それぞれの景色の移り変わりに接し、豊かな情操を育むことになる。自然保護、自由の思想も身につく。また、登山は強靭な精神も養う。困難に立ち向かう勇気と気概が求められる。自立の精神もまた培われる。山登りは人様について行けばいいというものではない。チームワーク、組織というものがわかる。義務と責任の観念が理解できるようにもなる。
学校のクラブ活動として、これほどいいものはない。むろん、他のスポーツ、スポーツ以外の文化部の活動も悪くない。それぞれの存在理由がある。だが、危険だからと、あっさりと山岳部を廃止してしまってよいものだろうか。
恐らく、廃部した学校には、顧問となるべき優れた指導教師がいなかったのだ。教育委員会に飼いならされた事なかれ主義、何にでもビビってしまう弱虫教師しかいなかったのではないか。日の丸に敬礼!と言われればペコペコ頭を下げ、君が代斉唱!と言われれば、嬉々として唱和する輩であろう。こんなのに、登山指導ができるわけがない。
卒業生として、鴨沂の山岳部廃止は残念に思う。OB会「北山の会」の人材供給にも支障がある。だが、しょうがないかな、という気分も打ち消せない。未来永劫にわたって不変の価値などあり得ない。登山界が変われば山岳会も変わるのだ。学校山岳部が廃れ、高校山岳部が廃止に追い込まれるのも、一つの時代の流れかもしれない。
かつて京都の北山を跋渉した高校生に代わって、アウトドアショップで買いそろえたコスチュームに身を固めた中高年のおじさん、おばさんが跋扈する。流行りの「山ガール」スタイルもいるぞ。登山の俗化などとは言うまい。いつの時代にもビギナーは存在するのだ。
三高山岳部報告第5号(昭和2年1月)にこう書いてある。「…道路を改修したので、今では貴船神社の前まで乗合自動車が行く様になった。それとともに近来は鞍馬、貴船に遊ぶペデストリアンの数が非常に増加してきて、遂に幽邃な貴船川の風致を『枝折取るべからず』などと書いたペンキ塗りの制札によって傷けしめるに至った…」。
小豆坂から柳谷峠。魚谷峠へ向かう人たちのメインルートである。夏山シーズンを迎えた日曜日なら、登る人、降りてくる人にしばしば出くわす。登山人口が増えるのは必ずしも悪いことではない。大いに山を楽しむがよい。だが、一つだけお願いがある。どうか、ゴミだけはほかさんと、持って帰っておくれやす。
(2011年5月27日、四手井 靖彦)
0 件のコメント:
コメントを投稿