2013年6月26日水曜日

鴨沂山岳部の廃部時期について訂正

鴨沂 8期 四手井 靖彦

北山の会のブログに20116月、「鴨沂高校の山岳部廃止に思う」なる一文を投稿した。その中で、廃部の時期を1968年と書いた。この年代は間違いであった。最近になって、そのことの指摘を受けた。データを確認せず、伝聞に頼ったのが間違いだった。

前同窓会会長だった鈴木正穂さん(鴨沂山岳部19)から鴨沂高校の校内誌「OUR SCHOOL OHKI」に廃部を示す資料があるとの教示を受けた。鴨沂高校へ出向き、校内誌のバックナンバーを検証した結果、廃部は1988年春であるとの確証を得た。謹んでお詫びし、訂正する。

校内誌に廃部のことが直接書かれているわけではない。そこに紹介されている1987年度(No.11) の部活動に山岳部が紹介されているのに、1988年度(No.12 )以降には載っていないことから、山岳部が廃部になったことが推察されるのである。

No.11 には、「本年度の活動としては、総合体育大会のオープン参加のみとなりました。…部員が3年生2人だけになったので、活動があまり活発でなくなってきました…」と柴田公孝さんが書いている。883月に3年生2人が卒業したとき、後継者が絶え、自然廃部につながったと考えられる。従って、19884月から廃部になったと認定し、それを関係者の共通認識にしたいと思う。

 

鴨沂高校は1948年の学制改革で、旧制京都府立第一高等女学校を舞台に、新制高校として発足した。旧制一中の校舎は新制中学になり、一中の生徒は鴨沂のキャンパスに移った。低学年は併設の中学に編入されたという。一中の山岳部員だった先輩たちが直ちに鴨沂の山岳部を興し、「北運」にルームを建てた。一中山岳部が場所を変えただけだった。一中の5年生だった人たちが、鴨沂の1期生である。

1988年卒は39期生ということになる。思えば、鴨沂高校山岳部も長く続いたものである。一中山岳部は大正年間の創設であり、学制改革でなくなるまで約30年存続した。鴨沂の山岳部はそれより長く続いたことになる。

 

 1980年代と言えば、植村直己がテレビスポンサーの支援で、ヘリによる食糧支援を受けながら北極点に達したころであり、目を海外に転ずれば、かのラインホルト・メスナーが8000m級14座の登頂を果たしたころでもある。

 オリンピックの特別メダルを拒否するなど、メスナーは個人的には評価するところもあるが、言ってみれば、登山のスポーツ化の代表選手みたいなものである。植村はスポンサー付登山という商業化時代の象徴的人物である。最近は80歳のスキーヤーがエベレストに登り、高齢者記録を塗り替えたと、マスコミが大騒ぎしている。近代アルピニズム=初登頂主義の時代が終わり、こうした登山の商業化、スポーツ化が顕著になり始めたころに、鴨沂の山岳部も消えて行った、と記憶しておこう。 (2013626日、四手井 靖彦)