初めて石徹白を訪ねたのは高校生のときだった。先輩たちはここから大日岳を目指していた。いまは大日岳の東斜面にスキー場が開発されているが、当時は積雪期に石徹白から登るのが普通のルートだった。ルーム日誌でそんな山行記録を読んでいた。
私どもも大日岳に登るつもりだったが、雪の少ない年でブッシュが出ていた。西の小白山(おじろみやま)に転進した。スキーで橋立峠から頂上に至った。このとき、上在所の石徹白千代之助さんの家に泊まった。先輩たちもみんな、ここをベースにしていた。そのころすでに、千代之助さん夫婦はかなりのお年寄りに思えた。奥さんは片方の目が不自由と聞いた。あまり姿を見せなかった。今西武奈太郎さんは、奥さんのキクラゲのクルミ和えがおいしかったと回想している。
その後、かなり年をとってから野伏ヶ岳と願教寺山を目指した。野伏岳は日本山岳会パーティーだった。登頂後、5人パーティーの紅一点が転倒して足首を骨折し、降ろすのに苦労した。願教寺山は5月の連休だったか、ツボ足だったが、熊笹の上の雪が一歩踏み出す度に崩れて滑り、とても歩ける状態ではなかった。早々に撤退した。この二つの登山は、下在所にできた新しい民宿を利用した。
今回の石徹白行きの一つの目的は上在所を訪ねることだった。千代之助さんの家はもうなかった。跡地に地域のコミュニティーセンターという建物が出来ていた。近くに縁戚の人がいた。千代之助さんの消息を聞いた。周囲の環境はほとんど変わらず、大きな杉木立に囲まれた白山中居神社のたたずまいは昔のままだった。落葉した周囲の山々がくすんで見えた。石徹白川のせせらぎが野伏岳から薙刀、願教示山へと白山の別山に連なる水上の山々へ誘っているように思えた。千代之助さんがいないだけで、みんな昔と同じだった。これを石徹白の「明」としておこう。
これに対する「暗」は開発である。桧峠付近に大規模なスキー場やゴルフ場が出来ている。これらの開発が一概に悪いと言うつもりはない。だが、開発行為は自然破壊と紙一重である。それと、自然愛好家との調和という問題を突き付けている。
桧峠の南に毘沙門岳がある。その斜面は「ぶどうヶ原」だったか、そんな呼び名であった。恐らく萱場だったのだろう。立木のない広い斜面だった。そこがスキー場に開発され、さらに無雪期はゴルフ場になった。
毘沙門岳への古い登山道がある。それがゴルフ場に取り込まれてしまった。進入路に「登山者進入禁止」と、悪意に満ちた表示がある。がらがらの駐車場に入ると男が飛び出してきて、「私有地だから帰れ」と居丈高である。何もゴルフの邪魔をしようと思っているわけではない。ゴルフ場の縁にある登山道を歩くだけではないか。
国有林にしろ、私有林にしろ、国土にはすべて所有権が発生している。だが、昔から登山者は自由に山に入っていいことになっている。こういうときに持ち出すべきではないが、入会権と言う言葉もある。これは一つの文化といってよい。私有地だからと言って自然を取り込み、有料利用者以外を一切拒否する強権的姿勢は、日本古来の優れた文化に反する。登山とゴルフが互いに尊重しながら共存する道はないのか。
ケチのついた毘沙門岳をやんぺして、北側の水後山(すいごやま)に変更した。毘沙門岳には若いころに登っているから未練はない。水後山は私にとって未踏峰である。こちらの方が値打ちがある。昔、石徹白に入るのに、越美南線の終点、北濃駅から歩いて桧峠を越えた。そして、毘沙門岳に登って上在所まで行ったのだ。若いころの話だが、よくそんな元気があったものだ。
水後山から降りて桧峠に戻ったとき、毘沙門岳方向から2人の婦人パーティーが降りてきた。ゴルフ場が場内を通らない新ルートをつくっているという。婦人らはそれを通って登ってきた。「どうでしたか」と聞いてみた。「崖っぷちに急造した道で、笹も生えて危険がいっぱい。ゴルフ場のおかげでえらい目に遭った。もう、2度と通りたくない」と大変な立腹であった。もし、このルートで遭難が起きたら、ゴルフ場は責任を取るのだろうか。「暗」が想定や感情の段階ならまだよい。もし、いい加減な登山道で不幸な事故が起きたとしたら、開発行為が取り返しのつかない「暗転」になる。ゴルフ場開発に際しての、行政の指導にも問題がありそうである。
(2011年11月7日、四手井 靖彦)
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