2012年8月29日水曜日

サンモリッツ・スキーのお誘い 鎌田克則

この暑い最中にスキーのお誘いとはどうかと思いますが、こういう事は早いほど有利。計画は密なるを以って良し。それと早い決断です。
 さて来年凡そ1月13日頃より21日頃に掛けて、サンモリッツにスキーに行きます。今更申すまでもなく、サンモリッツは第二回と五回の冬季オリンピックの開催地、素晴らしいスキーリゾート地です。宿はクラブMED。もうヨーロッパのクラブMEDに4箇所行っており、これで5回目。一緒に行った人も多く、毎回皆さん大満足。スキーとはこんなものだったのか。その楽しみ方,滑降距離、標高差、アフタースキー、何もかも豪勢で徹底しております。まず食事三食バイキングながら豪華。それにワイン、ビール、カクテル飲み放題、夜はショウもある。一週間リフト券付き、それにフランススキー学校出身のインストラクターがレベルに応じてぴったりガイドしてくれるのです。年寄りはそこそこ適当にやることも可能です。セガンティーニ美術館とか。
 それに安い。今回はスイスフランながら、概ね滞在費1週間115,550円、飛行機エミレーツで12万円ぐらい、他の交通費用他入れても25万円ぐらいか。今回は行きか、帰りに希望者あれば、トンボ帰りでは勿体ないので、荷物は空港に送っておいて、軽い荷物で何処か1~2泊見物しても。
 これまで毎回お世話して来ましたが、日本のクラブMED代理店の対応の悪さに業を煮やし、スイスと日本の旅行業者に頼んだ所、やっと日本ルートで情報が入ったのです。それで二人部屋を4~5部屋押さえてお誘いします。
既に4,5人程希望を聞いておりますから、後3~5人受けられます。
可能性あれば、即連絡下さい。キャンセルは1ヶ月前まで可能です。ただし人数が奇数になるときは、少々無理申すかも知れません。このお誘いは9月初旬締切とします。人生は短い。スキーを存分に楽しみたければ即連絡を。

2012年8月26日日曜日

ご無沙汰しています

北山の会の皆様
 ご無沙汰しています。春から体の回復は順調になり、6月から散歩という名のトレーニングを始め、1回10キロの歩行と、169メートルの小山に登ることを始めました。これを数回こなしたところで、大学山岳部OB会から連絡があり、美瑛岳遭難から50年になるので、今夏、追悼登山会を行い、一つの区切りとしたいとの召集令状が届きました。この会にはどうしても行きたかったので、主治医と山の神様、家族に三拝九拝し、懇願して許可を得て、北海道行きのフェリーに乗ることができました。
 美瑛岳の麓の白銀荘には予定より1日早く入り、同年の友人と足慣らしに十勝岳に登り、次の日の追悼登山に備えました。少し歩いていたのでか、当日は、心配することなく皆についてゆけてホッとしました。40年ぶりに学友や後輩たちとも会えて悲しいはずの会も感激の深い登山会になりました。私の卒業した大学は、小さいので、山岳部も現在はほとんど活動もなく、部員も一桁が続いている現状だったので、大学で、担当教授に山岳部の活性化を話をすることもできました。OB会では、体も心も、お金を出してでも山岳部の活性化を支援してゆこうと確認することができました。その中で、某有名大学の山岳部でも、訓練する指導者が不在なのでプロのガイドなどをお金を払い指導してもらっている話や、昔の伝統を現役の学生にOBが話しても、やらせても、今は通用しない。などの話がされて、山岳部も新しい運営方針で、現役の学生達のリクエストを満たす運営をOB会が支援することが重要だとの結論になりました。山岳部の考え方も随分変わって来ているようです。
 その中で嬉しかったのは、洛北高校山岳部出身のOGがいてくれた事でした。彼女は宮内(旧姓??)光さんで、今は上士幌町に住んでいるとのこと。もちろん私とは20年以上年齢も違うので面識もなく、初対面だったがこんなところで会えるのは奇遇だとお互いによろこびました。北山の会のブログのことや、メーリングリストのことも話しておきましたので、その内に彼女からの書き込みがあるかもしれません。
札幌では安藤先輩と愉快な奥様にもお会いでき美味しいお寿司を御馳走なり感激でした。
 
 
 北海道で洛北山岳部のOBに二人も会えるなんてなんと素晴らしいことと思ってます。
 
 これから、秋にかけて少し山歩きをしたいなと思っていた途端に夏にはしゃぎ過ぎたのをお盆で帰ってきた御先祖さまにたしなめられたのか、14日のお墓参りの途中の階段で滑って転び、背骨と右股関節を強打し通院する事態になってしまい、現在安静中です。蒲田さんにお誘いいただいていた中国の旅は、この体では参加できそうになく残念です。
洛北8期 太田 亙

2012年8月21日火曜日

北山荘に集まろう会(報告) 川井久造記

2012年4月29日(日)快晴 気温14~28℃
参加者:川井久造、中村淳、仲田道彦 3人

 年度はじめの行事として、会報に予告しているが、参加者は、3人であった。
 GWのはじまりで、みなさんの予定があったのだろうか、登ってくる人は誰も来なかった。
 雲ヶ畑行きのバスが廃止となり代行会社のジャンボタクシーが一日1回往復していることを知り、当初はこれに乗る予定であったが、幸い仲田君の車になって、出合橋から延々と歩くことなく幸いした。
 青空のもと気分爽快。アズキ坂を越え、いつものように渓流に沿って行く。足元にクリンソウの若葉が出はじめ、芽吹いたばかりのミドリは早春の薫風の風情。クマザサの枯れ野の奥に小舎が見とおせる。誰も来ていない。
 昨年は18人の大勢だったのに、今日は3人だけで焚き火を囲む静かな一日となる。
 去年の台風で倒れたオオヤマザクラは再起し、満開に出合うことができた。小舎帳には根付きを心配して何度も確認に来た記録があった。小舎の周囲の整備、薪置き場が移動され、水場の手直し、また新しい樅材の座卓が置かれていた。
 多くの有志の賜物に感謝しながら2階の窓から見通せる谷筋に人が登って来ないか眺めていた。
 焚火を囲み、ここに集まった昔人のことを想いながら、谷川のせせらぎを枕にして小舎の一日を堪能した。        (川井久造記)

2012年8月17日金曜日

播隆上人はアルピニストだった


 18世紀にヨーロッパで近代アルピニズムが興る前、人々にとって山岳はどういう存在だったか。聖なる信仰の対象だったのだ。雪や氷をまとい、人を寄せ付けない急峻かつ高き嶺は畏敬の念を呼び起こした。人知の及ばぬ所にはすべて神がおわすのだ。これは洋の東西を問わない。モンブランも富士山も白山も信仰の対象であり、恐れ多い山であった。

 だから、最初に山へ足を踏み入れたのは、ぼんさんだったのではないか。明治39年、陸軍参謀本部の陸地測量部が地図作成のため、未踏峰とされていた剣岳に登ったとき、頂上に奈良時代の錫杖があったことは、新田次郎の「剣岳点の記」などでよく知られている。アイゼンやピッケル、ザイルといった近代的登山用具のない時代に剣岳に登るのは、よほどの苦労だったに違いない。信仰という強い信念があればこそだが、そこに、近代アルピニズムの萌芽を見ることはできないか。



槍ヶ岳の開祖と言われる播隆上人(17861840)が、日本初のアルピニストではなかったかと考えている。浄土宗の僧であった越中の人播隆は、笠ヶ岳の再興者であり、槍ヶ岳の開祖ということになっている。笠ヶ岳の開祖は円空ということであり、再興者ということは、それに登路をつけたということだろう。

 笠ヶ岳に登って槍ヶ岳を見たとき、次はあれに登ろうと決心したという。播隆の心を動かし、さらなる登行意欲を沸き立たせたのは何だったのか。むろん、信仰心もあっただろう。だが、信仰心だけがモチベーションなら、なにも槍ヶ岳に登る必要はない。笠ヶ岳に何度も登ればよいのだ。播隆にとって槍ヶ岳でなくてはならなかったのは、それがより高く、困難であり、より未知な山だったからだ。それはアルピニズムの精神でなくて何であろうか。無自覚であっても、近代アルピニズムの精神が内在していたと思われる。

比叡山に千日回峰という荒行がある。7年かけて1000日の行に服する。130キロ歩くとか。あまつさえ、9日間の断食、断水、不眠、不臥など、信じられない荒行である。肉体を酷使することで精神の浄化を得る、世俗を超えた世界に入る、という論理は納得できないことはない。だが、肉体を酷使することと、高き、未知なる頂を目指すということはまるで違う。宗派も違うが、仮に播隆が天台宗だったとしても、千日回峰のようなアホなことは絶対にしなかっただろう。彼の精神をゆり動かしたのは高き、未知なる頂だった。播隆は宗教人であると同時にアルピニストだったのだ。


一つのアルピニズム精神が導かれる。まず、無欲であること。そして、初登山から得られる精神的充足感、未踏の地へ到達、そこで体験した知的充足感以外、一切の実利がないことである。人跡未踏の地には何があるか、それを探るのは知的好奇心である。登山が知的行為であるとされる所以である。

四手井 康彦 2012.08.17.   

2012年8月1日水曜日

旅行の楽しみ           鴨6 鎌田克則

 たまたま今秋アルタイ、天山の方に出かける予定ですが、同行する友人より、中央アジアに関する古い本を、読んどいたら良いでと3~4冊持ち込まれました。なかなか読めなくて、取りあえず各本の「はしがき」と「あとがき」それに著者の経歴だけを目を通しました。 そのなかに「ユーラシア手帳」加藤九祚著のあとがきに、次の言葉がありました。

 11世紀ペルシャで描かれた教訓書カブス・ナーメに、「もしも君に資力があって、しかも旅に出ないならば、それは君の富から充分な恩恵を得たことにならないだろう。この世の富から得る充分な楽しみは、見なかった物を見、食べなかったものを食べ、見つけなかったものを見出す事であり、これが出来るのは旅においてだけである。旅をして世界を見たものは、経験に富み、成功しやすく、賢明である。なぜなら、彼等は見なかったものを見、聞かなかったことを聞いたからである。話を聞くのと自分の目で見るのとは違うのだ。」
とありました。何しろ11世紀の事ですから、旅に出られるのは、当然資力のある人しか出来ないことだったでしょうし、情報のない時代でしたから、旅は実利的にも有用だったでしょう。

 しかし現在通常の生活で、一寸切り詰めれば、旅する資金は出てきますし、情報も溢れています。BS放送旅行番組を見れば、行った気になれます。それでも現実に行ったのと、TVの画面で見るのとはおお違いです。

ずばりペルシャの賢人は、それを素直に云い当てていると思いました。

             今夕スイスに出かける直前の空き時間に。