2011年10月23日日曜日

北山の記事 

 四手井先輩のブログに大賛成です。「北山の父」の表現は確かに私も誇大表現と思います。森本氏が言われた言葉ではないと思いますが、森本氏を取り巻く社会の方々(ある種の職業的集団)が「○○の父」とよく使う言葉です。
 また、私が高校生の頃から北山の地名については、北山の会の大先輩達が採取したものや命名したものを誰かが無断使用して本を出版した話はよく聞かれた話です。
そのことは、北山の歴史の中でも汚れた一部ですが決して忘れられることはないと思います。
 山登りは、誰が検証しなくても「登った」と言われればそれを信じる紳士の世界なのですからそれから外れることをすればそれなりの評価しか受けません。北山荘に行く途中に壊れた山小屋がありますが栄華盛衰を感じさせるのは私だけでないでしょう。その山小屋が全てを物語っているように感じます。
それより前に建った北山荘が現在でも多くの人々によって愛され守られ健在であることもそれを物語っているようです。
 おっしゃる通り、京都には、北山問題より大きな「京都学派」という学会用語があるように京都独特の自然科学を基礎にした考え方の派がありますが、その原点は京一中を基礎とした北山を愛して登った「山登りグループ」(本当は北山の会の前身と書きたいのですが少し大げさになるのであえて書きませんが私は、それを作ったのは京一中山岳部の大先輩達)だと思います。それが脈々と現在の学問の主流になりつつあることは喜ばしいことです。
 山岳史跡公園の構想は面白いですが、かえって自然が壊されたりしないかと思います。歩いてしか行けないところが年々少なくなっていますがそれがなくなるのではないかと心配です。北山荘も歩いてしか行けないし、トイレもないのがいいんだと私は思ってます。
 北山の会の方々がもう一つ系列の方々と付き会おうとすればどうしても、北山の会を肯定しては行けない部分が出てくるのか色眼鏡的に見られることもあるように感じます。どちらにも引けないプライドがあるようですが、私は、北山の会のほうが正統派だと思ってます。向こうもそう思っているのでしょう。
お互いに融和の心がないとこの問題は解決しないでしょう。竹内氏もそんな風に思われて退会されたのかもしれませんが、年が経つと此の事も解かってこられると思います。その時は大きな心で迎えましょう。
洛北8期 太田 亙

2011年10月19日水曜日

岳人11月号

「岳人」11月号の北山特集は愚生も読みました。筆者の竹内康之君から連絡をいただきました。桟敷岳は高校時代以来、ご無沙汰でしたが、2年前に利尻へ行くトレーニングの一つとして登りました。北山では最近、登った部類です。北山には、未踏の三角点がほとんどなくなりました。
 北山荘周辺は北山の会のルーツ、一中山岳部の大先輩らの揺りかごの地で、初代北山の小舎跡、今西記念碑、北山荘を3点セットにした「山岳史跡公園」として現状保存できれば、と考えています。
 北山特集の文中に、森本次男さんのことを「北山の父」と書かれている部分がありましたが、この点に関しては、いささか疑問を感じています。京都の登山家の系譜は二通りあって、一つは今西さんを中心とする一中、三高の流れです。これを一中系としておきましょう。もう一つは小谷隆一さんを中心とする流れで、私はこれを府岳連系と名付けています。それぞれ独自の活動をしてきました。森本さんは府岳連系と言ってよいでしょう。ニ商出身かニ商の先生だったか、小谷さんとの結びつきは強いと思われます。
 だが、こと北山に関しては、歴史的かつ実践的に、一中系が大きな役割を果たしてきたと考えています。森本さんは「京都北山と丹波高原」を著し、北山登山の普及に貢献したと言えますが、その著作は一中山岳部の「山城三十山記」からの剽窃が多いと、梅棹さんは終生、怒りの覚めることがありませんでした。このことはさておいても、森本さんに「北山の父」の尊称がふさわしいかどうかは、検証するべき課題だと思います。
 「比良の父」と言われた人もいました。この人が京阪電鉄の武奈ヶ岳周辺開発にお墨付きを与え、どれほど比良の自然破壊に加担したかは知る人ぞ知る事実です。森本さんには竹内君が付与したわけではありませんが、「○○の父」などという尊称は、安易に人に与えるものではないと、かねがね考えています。
 竹内君は鴨沂の22期で、一緒に山にも登っています。かなり昔の話ですが、美濃の屏風、左門に登りました。本職はデザイナーで、北山の会が発刊した一中山岳部史「行く手は北山その彼方」の装丁も手掛けてもらいました。どういうわけか、数年前に退会しています。残念です。いつか、復帰を期待しています。
                                         (四手井 靖彦)

2011年10月18日火曜日

北山荘の記事

2011年雑誌「岳人」11月号の第二特集は「歴史と峠の交錯路京都北山の歩き方」として67ページから82ページまで掲載されている。筆者は竹内康之氏で、彼は北山の会の会員で鴨沂22期45年卒である。北山の会総会でお会いしたことがあるかもしれないが私はあまりよく知らないが活躍されているようだ。(同じ月の「山と渓谷」212ページにも彼の記事がある)
北山荘のことも75ページに「歴史を刻む山小屋」として詳しく正確に書かれていて、屋根が改修された後の写真が載せられている。その文章のなかで、京一中山岳部から始まった北山歩きが引き継がれ北山の会会員の我々の原点であり、そのベースが北山荘であると書かれているのが嬉しい。
偶然ではあるが、同号と「山渓」の11月号には我々が現役の時代に最も重要な山行の技術として教えこまれた地図を読む「読図」が特集として組まれていて楽しく読める。
また「山渓」の174ページには梅棹忠夫先輩の記事があり、大先輩の「未知への限りない情熱」が紹介されている。梅棹先輩の数々の御著書は最近特に山を愛する人に読まれているようで書店でもよく目につく。この本はまだ読んでないがぜひ読みたい一冊だ。
岳人の同号には、「北の山河抄」を新谷暁生君が書いているが、彼は大学時代の後輩で、ニセコや知床で活躍している冒険心を持つ本物のプロのシーカヤックガイドだ。
「岳人」は私が高校時代に買った105号からよく読む雑誌だが今月号は特に親しみが持てる。
洛北8期 太田 亙

2011年10月4日火曜日

10月末~11月初め、錦秋の石徹白に行こう!!

私は、高校山岳部時代、大変お世話になり、また北山の会と云うOB会を作って頂いて、又楽しく過ごさせていただいている諸先輩に、何とか御礼の気持ちを込めて一度ご希望の場所にご案内したいと思い、秋の奥美濃、白山周辺、飛騨等を申し出ておりました。
そしたら会務等で人一倍お世話になっているチュートンさんより、石徹白に行きたい、途中郡上八幡に寄って欲しいとのご希望を聞きました。
 紅葉の石徹白、白山神社を訪ね、周辺の山々を眺めるだけで、積もる話が出てくるでしょう。道中石徹白に一泊すれば、それこそゆっくり話も出来、また往路、復路色々寄る所あり、楽しい事請け合いです。
 問題は、日程、天候、紅葉の具合、宿、参加人数、車の手配です。
 今回は、天候と紅葉の具合を最優先にします。即ち概ね10月末、11月初め辺りが通年紅葉最盛期なので、その辺りに狙いを定め、数日前には凡その天気が予測出来ますので、そこで日程を決める。そして宿を手配することにします。どちらかと言うと、休日は避けたい。
そんなラフな計画ですが、皆さん是非参加してください。人数によって個人提供車か、事によっては,MKジャンボTAXI、小型貸しきりバスも視野に入れています。
要は、楽しくわいわい言いながら、秋の石徹白を楽しもうという計画です。自分だけでなく、是非北山の会の他の人にも声を掛けてください。
参加申込は、勝手ながら、私は1010日より19日まで、シルクロード、タクラマカン砂漠に行きますので、四手井靖彦さんにお願いします。
メールアドレスは次の通りです。
 四手井 靖彦 edel-ys@zeus.eonet.ne.jp
 〒607-8452 京都市山科区厨子奥矢倉町22-1
  TELFAX 075-591-5189
是非皆さんの参加をお待ちしています。
                                                                    鴨6 鎌田克則

また、また「皆子山」

また、また「皆子山」
 また、また「皆子山」である。「もう、その話はええ、やめ―!」という声が聞こえて来そうである。我慢してもう1回だけ読んでもらいたい。北山に関しては、その登山史に最も深い関係のある「北山の会」が、すべてに応える義務と責任があると考えている。

 「皆子山」の呼称について、先に横田和雄(京都山の会)の「京都府の三角点峰」から、西尾寿一同会会長の「みなご」説を紹介した。その後、西尾が日本山岳会京都支部報(No.13、1988年12月15日)に「『みなご』の名称について」を投稿しているのを思い出し、再読した。重複する部分もあるが、要点を以下に紹介する。
西尾の「みなご」説は主として塩田愛雄氏(1987年没)の「皆子の山名に就いて」を敷衍したものである。それによると、「ミ」は美であり「ナゴ」をナギやナコまたはナコソと捉え、語意を「美しい砂地の平坦地」と解釈する。その図式は以下の通りである。
◎ミ=「美」、美しい好ましい所
◎ナゴ・ナギ・ナカ=崖・浸食地形・焼畑であり、川の上流に広がる美しい白いガレの見える平地と解釈される。また、「ミナ」と「ゴ」に分離した場合、
◎ミナ=「水」「皆」「南」「蜷」
◎ゴ=「川・河」「郷」「興」「呉「牛・午」「胡」としている。
皆子山周辺でこれらに当てはまる土地は安全性、交通の条件、生産活動から考えて、安曇川筋の「平」しかない、というのが西尾の結論である。そして、やや唐突であるが、「平」が「美那古」の呼称であったとしても、十分納得できるという大胆な推論を展開している。「那古」は「和む」の意味であろう。
また、西尾は独自の調査から、鈴鹿の愛知川(神崎川)と安曇川の類似性に言及している。古来、地元では愛知川源流のことを「南川」(みなご)と呼んでいたという。南川とは、北流する川のことであり、愛知川と安曇川はさまざまな類似点があることから、安曇川も古くは南川(みなご)と呼ばれていた可能性があるという。
山の名称であっても、土地の人が山頂そのものの名を知らないことが多い。逆に谷の名は小さなものでも、よく名付けられている。それは、土地の人が「山地」全体と結ばれていても、必ずしも山頂を意識しているわけではないからである。従って、先駆的登山者は山頂付近の小字名か谷名を聞いて、次善の策として山名とすることになる。
この結果、「平」あるいはその上流の谷の名称であった「みなご」が山名として定着した、というのが西尾の結論である。命名者とされる今西錦氏は恐らく、地元「平」で山名を採録したと思われる。西尾の説をある程度裏付けている。
以上をもって「みなご山」の名称についての筆を擱く。なお、関心のある方には西尾の「『みなご』の名称について」のコピーを送る用意がある。
(四手井 靖彦)