2011年3月1日火曜日

鴨6 鎌田克則です。

 2月25日(金)~26(土)京都北部駒ヶ岳(780)~百里ヶ岳(931)を縦走して来ました。その報告記を載せます。
 これを載せますのは、報告に加えて、去る2月1日、このブログで3月中~下旬 冠~金草~高倉峠計画を発表しておりますが、それを断念した理由を明記する。そして自分にも云い聞かす目的があります。
 それ程この計画に思い入れておりました。しかし人生何事も思う様になるものではありません。あと半月で75歳になる私にとって、この辺りで鉾を納めるべきと納得しております。
それを含んで長文ですが、読んでいただければと思います。

駒ヶ岳から百里ヶ岳
鎌田 克則
 この報告は、表題の縦走計画を実施した翌日(227)に記しています。今日は何と晴天、何たる事か!!一週間前から朝夕、天気予報をチェックし、今日は雨天となっていたのに!そのために、計画の実行を1日はやめたのに!
 225日早朝、つい近くの小林健二さん(25年前、鳥海山の山小屋で出会い、家が近所、山スキーもやる、世界のかなりの高峰も登頂。一方百名山はおろか、三百名山はもちろん、地域の○○名山と名が付けば、片っ端から登る強豪)を迎え、一路、麻生川上流の木地山へ。車なので、ピッケル、ストック、アイゼン、ワカンを携行、結果としてスノシューは置いて行くことにする。(結果は、アイゼン、ピッケルはほとんど不要)
 930 焼尾谷に入るが、積雪は1m弱。西谷、東谷別れから眞中の尾根に取り付く予定だが、最近の暖かさで増水、渡渉不可。東の尾根に取り付き、遠回りになるが、駒ヶ岳の南尾根から駒ヶ岳を攻めることにする。南尾根はブナの巨木群で有名、但し天候不良でほとんど見えない。腐れ雪のうえに、斜度の緩急に消耗させられる。
 駒ヶ岳直下で足が吊りだす。左右の太股、ひざ裏に激痛が走る。恐れていたことが起った。ここに荷を置いて、駒ヶ岳を往復して下山するべき、との思いがよぎる。その後、段々と斜度が緩くなり、足を騙し騙し何とか2時ごろ頂上へ。ガスでまったく視界なし。
 さて西へ。あまり凹凸のある尾根ではない。それより、視界が悪いので、ルートファインディングに苦労する。ただこのルートは高島トレイルの一部なので、黄色の目印が役に立つ。ただし、迷うところには目印がなくて、これだと確信したころに標識が出てくるのは、付けた方も迷ったのではないか。足の方は何とか動けそうだ。
 西に進むうち天候が悪化、時折小雨模様。予報では今日は曇天。雪が腐らない予定で来ているのに。696mのピークを越え、765mピーク辺りで雨がきつくなる。時刻も1630.あわててテントを張る。雨は降らない前提だったので、ゴアのヤッケくらいしか用意していない。よくぞテントのフライを持ってきたものだ。テントに潜りこんだときには、ザーザー降り。何たることだ。
 それからが大変。狭いテントの中で大の男2人がごそごそ動く。私はまた足が吊りだす。そもそも、姿勢が中途半端、それにコンロに火をつけると否応なしに足を曲げたり、伸ばしたりしなければならぬ。その度に激痛が走る。どうすれば止まるのか、その体勢をいろいろ変えるが七転八倒に近い。
 ボンベのガスは2人で1100gの計算でしか持って来てない。細々と沸かし、各々アルファー米を主食に若干のスープ程度。朝食の味噌汁さえカットした。すべて、重量制限のためである。
 雨の中のトイレ、それにエアマットに空気を入れ、シュラフに入るのも大事である。やっと水平になったと思ったら、足が冷たい。もちろん、“象足”も持ってきており、これ迄それで十分暖かく、靴下も乾燥したのに。そんなことも考えて、小さなホカホカカイロを二つ持って来ているはずだが、出て来ない。忘れたのだ。仕方なく、シュラフから足を出して、靴下も脱いで足をもむ。冷やしているのか、温めているのかわからない。
何かについて、テント内の所作がスムーズにいかない。昔はこんなことは無かった。もっと酷い悪条件下でも、まるで草原にテントを張るかのようにテントを張り、ホエーブスに火をつければ、粗末な用具、食料ながら、御殿のようになり、何でも煮て飲んで、食べて騒いでいたのだ。夜半の雨音を聞きながら、いつか就寝。
翌朝、7時だと小林さんに起こされる。凍りついたテントから首を出すと、雨はやんでいるがやはり曇天。朝焼けしている。本来ならば、晴天のはずなのに。ゴソゴソ起きて、粗末な朝食を食って、靴を履き、スパッツ、ワカンも付ける。かつて指先がこんなに冷たかっただろうか。その昔、革靴で、濡れて凍って木靴のようになり、紐も針金のようになっていた。それでも苦になった覚えがない。やはりあの頃は若かったのだ。雪山に登るというだけですべて当たり前だった。
930 765m地点を出発、さらに西へ。天候も晴れだし、雪も固くパカパカと快調である。あれよあれよ桜谷山へ。あまり快調で、ピークを一つ見落とすくらい。百里ヶ岳の白いピークが遠くに見える。あんなところまで行けるのか。左折して、1100頃何なく木地山峠着。お地蔵さんがひっそりと。その祠の片屋根が雪で潰れている。直してあげたいものだ。
いよいよ百里の登りである。初めから腹を括っていた。黙々と登る。高度計を見るのが怖い。ブナの疎林にだんだんと陽が射し、白くぽってり膨らんだ尾根に映えて、春山の典型的な美しさである。「これだ!」、これを求めてここに来たのだ。
小林さんも「やっと報われた」と叫んでいる。白いピークが近づいてくる。「あれが頂上か?」、「そうらしい」。1230 見渡してもそれ以上高いところはない。白く大きなドーム状の頂上である。なぜか周囲に木がない。視界360度、春霞であまり遠望は利かないが、前日からの縦走路はもちろん、その後ろに白い山々が見える。三十三間山・三重岳・野坂岳であろう。左には青く若狭湾、海と霞と混在しつつ美しい。大満足。それに足の吊りも発生していない。
頂上下手に2人の先行者がいた。これから下山予定の東尾根から登ってきたという。聞くと、京都北区辺りの人で、毎週この辺りを登っているとの由。先週は皆子山に登ったとか。その人の言によれば、この東尾根が、百里ヶ岳に一番登りやすく、安全なのにあまり人に知られていないとのことある。実際に下ってみてその感を強くした。京都市内からなら、車で充分日帰りできる。
下りはトレースがあるので快調の筈であった。しかし、気が緩むと、どっと疲れが出だす。雪も緩んで滑るし、時折木の根っこに足を突っ込み、抜くのに苦労する。ある時、足を抜いたら左足のワカンが無い。よく足跡を見ると、前から左足はツボ足で歩いているのだ。小林さんが探しに戻ってくれる。結局見付からず。相当上部から片足ワカンなしで歩いていたのである。問題は、それに気づかなかったことである。一寸ショック。
だんだんと急坂になるが、先行のトレースがあるので、よれよれ乍ら木地山部落へ。あちこちから雪解け水が流れ込んで滔々と流れている。10軒程度の小さな部落。屋根に雪の乗ったままの家も多い。どれほどの人が住んでいるのだろうか。
たった1人、村の人に出会った。「あの車はあなたの車か?」、「そうです」。昨夜から置き放しで、冷たい雨が降っていたので心配したとの由。駒ヶ岳から百里を回ってきたと説明したら、驚くと言うか呆れると言うか、顔が緩んで理解が得られた。

【毎春公言して来た、冠峠~金草岳~高倉岳 縦走計画断念の記】
本計画は元々冠~金草~高倉峠縦走計画の前哨戦という位置づけであった。そして一応計画通り完走できた。しかしこれで解ったことは、あと半月で75歳になる私にとって、今回は小林さんが居てくれたお陰で完走できたもので、どう考えてもこの辺りが限界である。
第一に、体力的に無理が利かない。何時足が吊るかもわからない。それに頭も体も加齢による劣化歴然である。ものを忘れる。不注意になる。何事によらず、これ迄何でもなかったことが、スムーズに進まない。これが日帰り程度の山行なら何とかなる。しかし、3日間越美国境稜線上に居るとなれば、それが決定的なダメージとなる可能性がある。
冠岳~金草岳~高倉峠縦走計画は、もともと、私が鴨沂高校山岳部入部の翌年春、当時3年生の秋田泰司さんが、夜叉ヶ池から冠岳までの縦走を計画され、単独実行され、雨で敗退されたことが発端です。15年ほど前、そのリベンジで夜叉ヶ池~三周往復~美濃俣丸~笹ヶ峰、高倉峠手前迄来て、30時間春雨に打たれ、高倉峠から下山。その後、2度挑戦するも戦果なし。その間の10年ほど前、大阪のホテルで秋田さんに会い、「あれ、やりまっせ」と、私が勝手に宣言したことに由来します。
ところが、私自身が税理士という職業柄、310日頃の適時は超繁忙時期で、偵察に行くも、時期を逃し、毎年の年賀状に「今年こそやります」と記しつつ、何年も経過。とうとう昨年、商売放ってもと腹を決め、比良で雪中幕営練習もやり、待ちかまえましたが、全くの悪天候続きで又見逃し。所が今年は多雪。それに少々藪が出ても天候安定する3月中旬目標を定め、越美国境よりやや低いが、条件が似ている駒ヶ岳~百里ヶ岳をテスト山行として実行したものです。
私としては、このためにこの10年、軽量装備と周辺情報を収集して来ました。今回それらの装備を総動員、テント、ポール、1.6㎏を除いて、アルミ製10本爪アイゼンを加えても、総重量10㎏を割る程徹底しました。計画の成否は、天候と荷の軽さが決め手と、その2点に集中してきましたが、それより加齢がこれほど多方面に影響するとは思いませんでした。
今回の百里ヶ岳への登りは素晴らしいものでした。百里…、その名の通り、一応の区切りとしてはまったく満足すべきものでした。考えればこの山登りを始めて65年。思う山には登れ、行きたい所には殆ど行けました。若かりし頃想定した範囲を遙かに越えています。正直思いを寄せて登れなかった山は、この計画だけかも知れません。幸せな事です。
今後、積雪期の幕営縦走は諦めても、少々のアプローチ後の前泊、翌早朝ラッシュをかける程度の積雪期の春山、それに山スキーは今後も続けます。以上冠岳~金草岳~高倉峠縦走計画断念の弁であります。

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