2012年5月15日火曜日

日本山岳会退会の弁 四手井 靖彦


     
331日付で日本山岳会に退会届を出した。このことについて、何の音沙汰もないが、受理されているはずである。普通の組織なら、「受理しました」と連絡があるものだ。1978年の入会、会員番号8423、いまではかなりの古株である。思えば30年を過ぎる長い付き合いであった。

 入会の経緯は別のところで書いているので、詳しくはそちらに譲る。今西錦司氏の薦めであった。日本山岳会のようなレベルの高い山岳会に、尖鋭的登山もやったことがない一介のヤブ山愛好家が入会することはあり得ないと、当時は考えていた。今西氏は会長も務めた人物である。この人の推薦があるなら、と入会した。

 入会した以上、それなりの活動をした。あるとき、今西氏に呼びつけられ、京都支部の設立に参画することになった。これも別に書いているので、詳細は省く。設立までの準備、その手続きを全部私がやることになった。先輩格の岐阜支部を訪ね、その手順を教わり、東京の事務局と連絡を取りながら、19863月に立ち上げた。

 そのころ、京都には意気と熱意があふれていたように思う。設立して間もないころ、全国支部大会の開催を引き受け、比良を舞台に成功させた。参加した会の幹部から、「京都は注目されている」と聞いた。言ってみれば、日の出の勢いのようなものだった。



 支部設立を主導した今西氏は19926月、他界した。パイオニアワークの時代が終わり、登山界は曲がり角に差し掛かっていた。今西氏が京都支部を興したのは、そうした認識があったからである。地元の京都から、新しい時代を築こう、との構想があった。ただ、今西氏の支部を託す人選には間違いがあった。名伯楽も晩年は目に曇りがあった。

 生前の今西氏から、「陰謀団体たれ-支部設立の構想」という原稿を託されていた。原文は広告の紙の裏に鉛筆書きされたものである。しばらく温存していたが、「京都支部だより27号」-今西氏追悼号に掲載した。

 「私はいまから60年前のことを考えている…」から始まり、日本におけるヒマラヤを目指す近代アルピニズムの勃興、そしてマナスル登山をもってそれを担った学校山岳部時代は終わった、と今西氏は書いているのである。さらに、「ひそかに登山界の将来を憂い、この際、京都にJACの支部を設立し、京都という都市を基盤として沈滞の中から、もう一度往年の意気を恢復することを念願とし、伝統の護持、後継者を育成することを念願としている」と、支部設立の真意を明かしている。つまり、「陰謀団体たれ」とは、京都に新しい山岳会を設立し。時代に即した新しい登山家を育てよ、という趣旨なのである。

 私は事務局を担当していた。未熟な支部だが、今西氏の言葉通り、京都から新たな情報を発信し、登山界の新たな世論形成に一石を投じたいと考えていた。「支部便り」を登山の総合誌に育てる、と公言していた。かつて、「ケルン」というレベルの高い山岳雑誌があった。秘かにそれを夢見ていた。

 だが、結論から言うと、支部にはそういう雰囲気が育たなかった。新しい支部についての今西氏の理念や理想を理解できる者がいなかった。私は松山に赴任し、2年間、京都を離れた。その間に、創設時の熱意や意気がしぼんでしまった。度し難いポピュリズムの世界に堕ちていく一方であった。 

 改革をしなければならないと考えた。改革なきところに進歩はないと、常に考えて生きてきた。支部長交代を機にその具体的行動を起こしたが、また、その野望は潰えた。支部には改革の意思はまったくなく、特定の人物を中心にしたサロン化への傾斜を一層深めるだけであった。役員の固定化、それらの支部私物化が最大の問題点であった。この悪弊にくさびを打ち込むことができなかったとき、支部への決別の時を悟った。

 自分の限界を知ったこのとき、日本山岳会も退会するべきだったかもしれない。だが、すぐには辞められない事情があった。入会したころは京都に支部はなく、岐阜支部に所属した。松井辰彌氏、高木碕男氏ら歴代支部長と親しくさせてもらい、いろいろお世話になった。この方たちが健在な間は、退会できないと考えていた。



今西氏が憂いていたように、京都支部だけではなく、日本山岳会そのものが衰退していた。日本山岳会は由緒ある、伝統ある山岳会である。初登山時代が終わった後、目標を失ってそのステータスが揺るぎ始めていると感じることが多くなった。日本山岳会は何を目指しているのか、何をやろうとしているのかわからなくなった。漫然と時流に流され、明確な意思を失い、その輝きを失っていった。

私は「近代アルピニズムを超える方向は何か」と、幾つかの問題点を提起したことがある(20077月日本山岳会会報「山」No.746)。だが、反応を示したのは本多勝一氏だけであった。山岳界が登山の形而上学的問題に無関心、不感症になったと感じた。

本多氏も会報に「『創造的登山(パイオニアワーク)』と日本の登山界」のタイトルで日本山岳会への提言をしている(No.74)。本多氏はその中で、著書からの引用として、登山界がこのように奇形化し、文化し、老衰期にはいったのは、なぜだろうか。それはエベレストが処女峰でなくなったからである、と書いている。



日本山岳会のどこに問題があるのか、以下に愚考する。かつて日本山岳会は単一の山岳会であった。目的や理念といったものを共有し、遠隔地にあっても、会員間にある程度の親交があったはずである。マナスルのころ、会員の一人ひとりが、この登山を支えている、といった意識があったはずである。いま、新しく入会する人は何を目的とし、どのような活動をしようと考えているのだろうか。ただ、「JAC」のバッジがほしいだけか。

支部の活動が活発化してきた。このことが即、不適当であるわけではない。中央集権的組織が必ずしもベストとは限らない。ただ支部がそれぞれ勝手な動きをして、相互の交流が薄く、一体感がないと感じられる。私自身は北海道や九州の支部とも個人的交友があったが、いま、遠隔地の支部間でどれほど交流があるのか。

同じ山岳会の会員ならすべて、同じ権利と義務を有しているはずである。支部がそれぞれ独自に勝手なことをやるというところに、単一の山岳会の運営上問題がある。例えば支部の企画に、他支部からいつでも参画があってもよいと考える。

日本山岳会は単一の会として、設立時から支部の存在を想定していない。関西支部は地方の一支部ではなく、西の拠点としての存在であった。だから、日本山岳会には恐らく府県単位の支部に関する規約というものがないのではないか。この点についても、以前に幹部の1人に進言したことがある。

日山協という組織がある。都道府県の山岳連盟の寄り合いである。日本山岳会は限りなく日山協に近づいている、という気がする。同じような組織が二つはいらない。かつて尖鋭的、指導的立場にあった日本山岳会は、いまや、地方の社会人山岳会の寄り合い世帯に過ぎない。



近代アルピニズムの根底思想はパイオニアワークとアマチュアリズムにある。処女峰がなくなって、パイオニアワークの道は閉ざされた。替わって、スポーツ化と商業主義が台頭した。商業主義はテレビと密接な関係がある。

処女峰がなくなったので、次に狙うのはバリエーションルート、アルパインスタイル、無酸素といったよりスポーツ的傾向であった。また、テレビの影響で商業主義が強く表れた。登山の職業化である。これはアマチュアリズムの崩壊を意味する。登山を続けることでマスコミの脚光を浴び、生計をたてるという人々が多く現れた。

ヨーロッパにラインホルト・メスナ―という登山家がいる。8000m14座にすべて登った男である。毀誉褒貶激しいと聞くが、私はメスナ―を秘かに尊敬している。オリンピックの“愚物”サマランチが特別メダルをやる、と言ったとき、メスナ―は何と応えたか。「登山はスポーツではないからいらん」だったのだ。世俗を嫌うこの一言は、十分に傾聴すべき価値がある。「むしろ、芸術に近い」と言ったとも伝えられる。

メスナ―は少し遅れて世に出た登山家である。処女峰時代は終わっていた。だから、無酸素とか、単独登攀というスポーツ的登山に向かわざるを得なった。そのメスナ―にして、「登山はスポーツではない」と言わしめたのは何か。私はそこに、ヨーロッパに深く根付いた近代アルピニズムの矜持を見る思いがする。日本とヨーロッパの思考の違いといったものも感じてしまうのだ。

 親しい友人の前芝茂人氏から、かつてスイス山岳会についての知見を得たことがあるので紹介する。登山先進地のヨーロッパと日本の、登山についての思考の違いを痛感する。前芝氏は小学館でスイス山岳研究財団が出す「マウンテン・ワールド」の日本版編集をしていたことがある。1982年にスイスを訪ね、同会幹部のA・エグラーと打ち合わせをしたとき、エグラーはこう語ったという。「1960年代でスイス山岳会の役目は終わった。『マウンテン・ワールド』も1969年までで廃刊したのだ」。1960年はスイス隊の二つ目の8000m峰、ダウラギリ登頂の年代を意味するのかもしれない。時代の変化をはっきりと認識している。前芝氏は一つの見識と思ったと、いまになって思い返す。



 スイスの貴族ド・ソシュールがモンブランに登って近代アルピニズムに火をつけたのは1787年、難攻不落のマッターホルンがイギリス人、エドワード・ウインパーによって登られたのが1865年である。この間に、ヨーロッパ各国で登山活動の花が開いた。

一方、日本において、ウオルター・ウエストンの前穂高登頂(1893年)を近代アルピニズムの開花とするなら、ド・ソシュールとの間に約100年の差がある。列強入りを目指して欧米の技術、文化を取り入れようとしていた明治期の日本人は、ハイカラな登山にもいち早く目をつけた。1905年には日本山岳会が興り、1956年にはヒマラヤのジャイアンツ、マナスル初登頂の栄誉を掌中に収めるに至った。恐らく、関連する人口、その実績において、日本は世界を代表する登山国であろう。だが、昨今の登山界の変貌に対処する姿勢には、彼我に著しい違いが見られる。それはヨーロッパと日本の、近代アルピニズム100年の歴史の差によものではないだろうか。メスナ―の登山感にも、それを強く感じるのである。



スポーツ化と相まって、登山界変貌のもう一つの大きな柱が商業化である。商業化にはテレビが大いにかかわっている。1988年に日本山岳会が行った日本、中国、ネパール3国によるエベレスト交差縦走は、実はテレビ局の企画であった。もともと東海支部が温めていたプランに、日本テレビ局が開局何周年かの企画として便乗したと言われる。

映像を見た。極端に言えば、主役は登山隊ではなく、撮影を指揮したテレビディレクターであった。テレビ局から中国当局への根回しがあり、中国から強力な働きかけがあったと聞いている。

この登山には批判もあり、当時の副会長が会報に、「中国の提案による、この計画が、幾多の曲折と、戸惑いの末、JACが受け入れざるを得まい、と、半ば屈折した思いを抱きながら承認した」と書いている。貴重な反省である。この反省がその後どう生かされたかは検証されねばなるまい。

今西氏も書いているように、日本においてはマナスル登頂で一つの時代が終わったのである。だが、日本山岳会にはいまだにその認識がない。無定見にスポーツ化、商業化を受け入れ、近年は「山の日」制定などの茶番に血道をあげている。1365日が「山の日」であるはずの登山家にとって、たった1日の「山の日」に何ほどの意味があるのか。

スポーツ化、商業化を排除せよ、と主張しているわけではない。山は好きなように登ればよい。だが、近代アルピニズムを標榜してきた山岳会にあっては、そこに一線を画してほしいと思うだけである。時代が変わった、従って、日本山岳会も方針を変更する、といったメッセージが必要である。



19965月のエベレストで起きた大量遭難を扱った「空へ」と「デスゾーン」の2冊の本を読んで、ヒマラヤ登山のあまりの変わり様に驚いた。商業公募隊がアマチュアに近い人たちを連れて世界最高峰に挑む。シェルパが後ろから尻を押し、前からザイルで引っ張るなどのサポートで、大金持ちのニューヨークの社交界の花形女性を、8840mまで引き上げてしまうのだ。

いろんなことを考えさせられる。装備の驚くべき進歩。かのマロリーも現代の装備なら、駆け足で頂上まで往復するかもしれない。シェルパたちの経験と高い技術。そして、何よりも登山形態の変化。世界の金持ちには、セブンサミッツを目指すものも多いという。「空へ」の著者、ジョン・クラカワーはそう書いている。

近代登山開花の舞台になったモンブランもマッターホルンも初登山の対象だった。ヒマラヤしかりである。近代アルピニズムの信奉者はすべて登山のパイオニアワークを目指した。しかし、商業公募隊を初め各国から次々登山隊が送りだされ、ヒラリーステップで順番待ちをした後でしか頂上へ向かえないエベレストの現状を見ると、登山のパイオニアの時代は終わったと深く実感する。

ヒラリーとテンジンが一歩一歩ルートを切り開いていった初登頂と、シェルパの張ったフィックスザイル頼りに登るのとは全然、意味がちがうのだ。それは仕方がない。初登頂は一度しかないのだから。

いつかは来る道であった。だからと言って、登山をやめてしまう必要はない。山がある以上、そこに登る人はなくなるまい。それはそれでよい。ただし、登山を続けるなら、第二登、第三登に甘んじなければならない。これも仕方がない。だが、これまで近代アルピニズムを信奉し、その実践を目指してきた人たちはどうするのか。

「これまでは近代アルピニズム精神に順応した初登山主義でしたが、時代が変わったので方針を変更せざるを得ません」との、組織としての表明がなければ無節操でないか。くどいようだが、山岳会としての総括が必要である。

なぜ山に登るのか。「そこに山があるから」と、マロリーが答えたという。本多勝一氏によると、正しくは「そこに未踏のエベレストがあるから」と解釈するべきだという。未踏峰こそ、登山家の心を揺り動かす原動力だったのだ。

少し大げさに言えば、「未踏への誘惑」こそ、人類の発展に貢献するエネルギーの根源であった。地球が丸いことは、それに捉われた勇気ある航海者によって証明された。科学技術も芸術上の発展も、ある意味では「未踏への誘惑」の生み出す結果であろう。



「未踏への誘惑」は「知的好奇心」と言ってもよい。登山が探検と同様に知的行為と言われた所以である。登山から「未踏への誘惑」がなくなったとき、何が起きたか。大学山岳部の衰退である。大学生こそ、知的好奇心の実践者であろう。大学山岳部の衰退は、初登山の終焉、登山界の変貌と表裏一体の関係にある。登山界に大きな変化が起きていたのである。だが、体制のなかに、それを正視する者がいない。

登山を愛好するすべてが未踏峰を目指していたわけではない。だが、登山行為の本質には必ず未知なるものへの誘惑が秘められていた。同じ山ばかり登っている人がいる。「百名山」の愛好家は一巡すると、また、一から登り始めるという。別に非難はしないが、この手の人たちには「未踏への誘惑」がない。登山は遠足や普通の旅行と同じなのだ。

同じ山に二度登るより、できれば知らない未踏の山に登りたい。これが、内なるパイオニアワークではないだろうか。より高く、より未知な山を目指す、それがヒマラヤの未踏峰への憧憬につながっていくのだ。これが近代アルピニズムの精神だった。

こうした問題が日本の代表的な山岳会である日本山岳会で、これまでのところ論議されたという話を聞いたことがない。残念ながら、初登山主義の終焉と新たな時代への展望と見解は一度も聞いたことがない。日本山岳会はマナスル登頂の過去の栄光にしがみつき、マナスルの頚木から脱することができないように見える。マナスルは過去の遺産なのだ。登山界はこれからどう生きるかの道筋を示してほしい。

いたずらに過去の栄光にしがみつき、その栄光に泥を塗るより、潮時を見て解散するのが賢明であろう。傷つきながら生き延びて、無残な姿をさらすのを見るに忍びない。



商業化という大きな波に、近代アルピニズムが飲みこまれていく。高山にケーブルやロープウエイ、ドライブウエイがつくられる。立山の室堂をハイヒールの女性が闊歩する。そのうち、ヘリコプターでエベレストの山頂に立てる日が来るだろう。こうした登山界の変貌に、どう対処していいかわからないのが日本山岳会である。知恵がない。優れた指導者がいない。従って、展望が生まれない。

「訴え、日本山岳会の行く末を憂えて」と題する、同山岳会執行部に対する一会員の批判文書を読んだことがある。一口に言って、事務局の硬直化、執行部の方向性の定まらない運営に対する批判である。日本山岳会の現状について、批判的な会員がいることがわかる。潜在的批判者はかなりの数に上るだろう。なお、この文書が一部で「怪文書」と呼ばれているらしいが、怪文書ではない。怪文書とは、出所を明らかにしない無責任文書のことである。「目的を失った組織が宿命的にたどる道が硬直化、独善、私物化である」と前芝氏は喝破している。

 

本多氏の退会を会報の2月号で知った。前芝氏も退会届を出したと聞いている。前芝氏はこう言っている。「組織というものは、志や目標を失うと。まことに見苦しい姿を現わします」。同感である。本多氏とはまだ話をしていないが、同じ考えではないかと推察する。今西氏なく、岐阜の松井、高木両氏も彼岸の人となった。日本山岳会とつながっていた細い糸が切れた。もう未練はない。「山の日」制定が終わったら、その後、何をするのか。行き先を失った“迷走列車”はどこへ向かうのか。それだけが気がかりである。
                                 (2012429日)

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