2011年11月28日月曜日

チュウトンさんより激励の手紙を受け取りました。

 先ずこの2、3日、古い山の会(その昔、山に行きたしは時間は無しで、山と車の会と言うのを作ったら、それからウン十年、最高94歳以下平均75歳ぐらいの人が、会は無くなったのに別れられず、勝浦温泉に集まった)に行っているうちに、えらいmailのやり取りが沢山あり、これMLのおかげでしょうか。全く夢の様です。 
 ところで北山の会の通信の件ですが、この間の総会の出席者が少なかった事から、通信の発行と、北海道方面山行(アンチンさんに企画依頼中)を提唱し、動き始めました。しかし肝心のチュウトンさんの了解が不確実でした。 
 そこでそのご了解と予算のお願いの手紙を送っておきました所、提案の趣旨に賛同する旨の手紙を頂きました。
加えて
1)総会は人数が少なくとも、継続したい。
2)ブログはもとより通信で未来へ向けて活動報告が載ることを期待する。 
3)会報は他の山岳会より充実したものをと、心がけてきたが、それについては今後も続けていく。4)通信にかかる諸費用は、会計より支出する。 
以上のようなお返事を頂きました。
 それ以外に、石徹白の故事来歴を調べ、会報の原稿を作成中とか、志賀高原行きは2部屋予約しているとか、蕨平は、参加希望が沢山来ている等、が記されておりました。
 これで天下晴れて堂々通信が発行できる様になり、名簿も頂きましたので、年内発行を目指し、四手井さんに編集をお願いしています。
 皆さんの計画や、報告、ニュース、トピックス MAILやブログで一部の人しか伝わっていないと思われる情報も載せたいと思っています。皆さんの積極的な協力をお願いいたします。
 高鍬さんより、MAILアドレスの載せ方について注意いただいております。大いに参考になり、早速訂正いたしました。皆さんも注意されるようお勧めします。有難うございました。
 東北森吉山より岩手山の計画にえらく燃えておりますが、何なりとご意見、希望をお待ちもうしあげております。
 それとそこまでの交通機関について、車にすべく張り切っておりますが。何の反応も無いので、力が抜けかけています。来年春の話に年甲斐もなく今から燃えているのが恥ずかしい。
 なんやかや書きました。そのうち通信を送りますのでご期待ください。
                                            鎌田 克則

2011年11月25日金曜日

早春の森吉山から岩手山へ山スキー計画  荻野和彦







 上記計画は、前副会長 荻野和彦さんが、その仲間と練られたものです。が北山の会でも揉んで欲しいと御注文です。
 私は高鍬さん経由でこの計画を始めて知り、震えました。
 かねがね行きたいと思っていた所ですが、このルートは、体力も、技術も当然ながら、山スキーですから、足並みの揃ったメンバーの参加が必須です。とても無理と諦めていました。
 そこへ突如この計画が降って来ました。この計画の内容は、詳細を御覧になれば解りますが、3つに分けて、幕営用具持参の長期の山スキー計画で、私としてはとても無理です。
 しかしよく見ると、玉川温泉、後生掛温泉、網張温泉が中継点となっていて、3ヶ所共車で行けます。
 そこへ目を付けて、各温泉に先廻りして出迎え、送り出しその前後は同行、後は温泉ベースにワンディハイク楽しむと云う軟弱な計画をし、荻野さんに申し出ました所、OKが出ました。
 荻野さんは、優秀な医者が同行するからストレス、腰痛等等リハビリに良いとおっしゃっていますが、とてもその甘言に乗れるものではありません。
 よって我と思わん人は荻野さんの縦走組へ。軟弱な人は私の方(但し運転出来る人)にお申し出下さい。
 詳細内容は、荻野さんなり、私にお問合せ下さい。
 では シーハイル        
                                       鎌田 克則
                          ( 鎌田mailアドレス rac-kamada@@tkcnf.or.jp )

2011年11月12日土曜日

山に英雄はいらない

「岳人」11月号の記事がちょっと話題になった。一部に誤解があるようである。私は竹内君の記事を批判したわけではなく、太田君も批判はしていない。ただ、一般に、「…の父」という大げさな称号は止めた方がいいと考えているだけである。太田君も同じような考えだと思える。山には「英雄」はいらんのだ。京都の登山界は大きく分けて二つの流れがあるとしたが、優劣は論じていない。基本的に、山は好きなように登ればよい。ただ、北山に関しては、「北山の会」が主体的に関与したいと考えている。
 マスコミは英雄をつくりたがる。森本次男を英雄視すると言えば大げさだが、「北山の父」とするのは一種の偶像視である。英雄視も偶像視も似たようなものだ。本人が望んだわけではなかろうが、取り巻き、あるいは英雄待望の世論(マスコミ)というものが作用していたかもしれない。
アウトドアの世界で、現代のつくられた英雄の典型は植村直己であろう。植村には何の恨みもない。植村を称賛したい人はすればよい。だが、私から見れば、植村は近代アルピニズムの範疇からは完全に外れた存在である。近代アルピニズムの根底思想はパイオニアワークとアマチュアリズムである。
ヒマラヤの処女峰時代が終わって、登山は変質した。即ち、スポーツ化と商業主義の台頭である。処女峰がなくなったので、次に狙うのはバリエーションルート、アルパインスタイル、無酸素といったよりスポーツ的傾向であった。また、テレビの影響で商業主義が強く表れた。登山の職業化である。これはアマチュアリズムの崩壊を意味する。登山を続けることでマスコミの脚光を浴び、生計をたてるという人々が現れた。植村がその嚆矢である。植村はテレビで持てはやされ、テレビのために死んだ。
植村に没後、国民栄誉賞が与えられた。どういう賞かよくわからない。植村は死んでいるから、それを望んだかどうかわからない。だが、生きていたとして、それを拒んだとは考えにくい。英雄視された男にふさわしい栄誉というべきか。
ヨーロッパにラインホルト・メスナ―という登山家がいる。8000m14座にすべて登った男である。毀誉褒貶激しいと聞くが、私はメスナ―を秘かに尊敬している。オリンピックの“愚物”サマランチが特別メダルをやる、と言ったとき、メスナ―は何と応えたか。「登山はスポーツではないからいらん」だったのだ。世俗を嫌うこの一言は、十分に傾聴すべき価値がある。
メスナ―は少し遅れて世に出た登山家である。処女峰時代は終わっていた。だから、無酸素とか、単独登攀というスポーツ的登山に向かわざるを得なった。そのメスナ―にして、「登山はスポーツではない」と言わしめたのは何か。私はそこに、ヨーロッパに深く根付いた近代アルピニズムの矜持を見る思いがする。植村との違い、日本とヨーロッパの思考の違いといったものも感じてしまうのだ。
余談だが、「ヒマラヤ 運命の山」というメスナ―を主人公にした映画を観た。特にメスナ―を英雄視していないところがよかった。ナンガパルバットでの隊長の指揮を無視した行動、弟ギュンターを死なせたことなど、淡々と描かれていた。
 友人の前芝茂人君(同志社山岳会、日本山岳会)からスイス山岳会についての知見を得ているので紹介する。登山先進地のヨーロッパと日本の、登山についての思考の違いを痛感する。前芝君は小学館でスイス山岳研究財団が出す「マウンテン・ワールド」の日本版編集をしていたことがある。1982年にスイスを訪ね、同会幹部のA・エグラーと打ち合わせをしたとき、エグラーはこう語ったという。「1960年代でスイス山岳会の役目は終わった。『マウンテン・ワールド』も1969年までで廃刊したのだ」。1960年はスイス隊の二つ目の8000m峰、ダウラギリ登頂の年代を意味するのかもしれない。時代の変化を認識している。前芝は一つの見識と思ったと、いまになって思い返す。
 スイスの貴族ド・ソシュールがモンブランに登って近代アルピニズムに火をつけたのは1787年、難攻不落のマッターホルンがイギリス人、エドワード・ウインパーによって登られたのが1865年である。この間に、ヨーロッパ各国で登山活動の花が開いた。
一方、日本において、ウオルター・ウエストンの前穂高登頂(1893年)を近代アルピニズムの開花とするなら、ド・ソシュールとの間に約100年の差がある。列強入りを目指して欧米の技術、文化を取り入れようとしていた明治期の日本人は、ハイカラな登山にもいち早く目をつけた。1905年には日本山岳会が興り、1956年にはヒマラヤのジャイアンツ、マナスル初登頂の栄誉を掌中に収めるに至った。恐らく、関連する人口、その実績において、日本は世界を代表する登山国であろう。だが、昨今の登山界の変貌に対処する姿勢には彼我に著しい違いが見られる。それはヨーロッパと日本の、近代アルピニズム100年の差によものではないだろうか。メスナ―の登山感にも、それを強く感じるのである。
 処女峰時代が終わって、近代アルピニズムは終焉した。日本においてはマナスル登頂で一つの時代が終わったのである。だが、日本の登山界にはその認識がない。無定見にスポーツ化、商業化を受け入れ、近年は「山の日」制定などの茶番に血道をあげている。スポーツ化、商業化が悪である、と決めつけるわけではない。山は好きなように登ればよい。だが、近代アルピニズムを標榜してきた山岳会にあっては、そこに一線を画してほしいと思うだけである。日本国は敗戦という一つの時代を区切りに、民主国家として新しく生きることを世界に宣言した。登山界はそれをしていない。

 話が逸れた。山の世界に英雄はいらないが本筋であった。「父」もいらない。商業主義は英雄を待望する。そこに登山家が陥る危ない罠がある。北山の山岳史跡公園構想は、公園化して標識やベンチを設置しようとするものではない。北山荘周辺が私有地であることに一抹の不安を感じているのである。所有者が代わると、北山荘がどうなるかわからない。府教委に買ってもらうか、我々が買うか、一切の開発を断ち、現状維持できる道を模索したい。
(2011年10月27日、四手井 靖彦)

2011年11月10日木曜日

石徹白の明と暗

初めて石徹白を訪ねたのは高校生のときだった。先輩たちはここから大日岳を目指していた。いまは大日岳の東斜面にスキー場が開発されているが、当時は積雪期に石徹白から登るのが普通のルートだった。ルーム日誌でそんな山行記録を読んでいた。
 私どもも大日岳に登るつもりだったが、雪の少ない年でブッシュが出ていた。西の小白山(おじろみやま)に転進した。スキーで橋立峠から頂上に至った。このとき、上在所の石徹白千代之助さんの家に泊まった。先輩たちもみんな、ここをベースにしていた。そのころすでに、千代之助さん夫婦はかなりのお年寄りに思えた。奥さんは片方の目が不自由と聞いた。あまり姿を見せなかった。今西武奈太郎さんは、奥さんのキクラゲのクルミ和えがおいしかったと回想している。
 その後、かなり年をとってから野伏ヶ岳と願教寺山を目指した。野伏岳は日本山岳会パーティーだった。登頂後、5人パーティーの紅一点が転倒して足首を骨折し、降ろすのに苦労した。願教寺山は5月の連休だったか、ツボ足だったが、熊笹の上の雪が一歩踏み出す度に崩れて滑り、とても歩ける状態ではなかった。早々に撤退した。この二つの登山は、下在所にできた新しい民宿を利用した。
 今回の石徹白行きの一つの目的は上在所を訪ねることだった。千代之助さんの家はもうなかった。跡地に地域のコミュニティーセンターという建物が出来ていた。近くに縁戚の人がいた。千代之助さんの消息を聞いた。周囲の環境はほとんど変わらず、大きな杉木立に囲まれた白山中居神社のたたずまいは昔のままだった。落葉した周囲の山々がくすんで見えた。石徹白川のせせらぎが野伏岳から薙刀、願教示山へと白山の別山に連なる水上の山々へ誘っているように思えた。千代之助さんがいないだけで、みんな昔と同じだった。これを石徹白の「明」としておこう。

 これに対する「暗」は開発である。桧峠付近に大規模なスキー場やゴルフ場が出来ている。これらの開発が一概に悪いと言うつもりはない。だが、開発行為は自然破壊と紙一重である。それと、自然愛好家との調和という問題を突き付けている。
 桧峠の南に毘沙門岳がある。その斜面は「ぶどうヶ原」だったか、そんな呼び名であった。恐らく萱場だったのだろう。立木のない広い斜面だった。そこがスキー場に開発され、さらに無雪期はゴルフ場になった。
 毘沙門岳への古い登山道がある。それがゴルフ場に取り込まれてしまった。進入路に「登山者進入禁止」と、悪意に満ちた表示がある。がらがらの駐車場に入ると男が飛び出してきて、「私有地だから帰れ」と居丈高である。何もゴルフの邪魔をしようと思っているわけではない。ゴルフ場の縁にある登山道を歩くだけではないか。
 国有林にしろ、私有林にしろ、国土にはすべて所有権が発生している。だが、昔から登山者は自由に山に入っていいことになっている。こういうときに持ち出すべきではないが、入会権と言う言葉もある。これは一つの文化といってよい。私有地だからと言って自然を取り込み、有料利用者以外を一切拒否する強権的姿勢は、日本古来の優れた文化に反する。登山とゴルフが互いに尊重しながら共存する道はないのか。
 ケチのついた毘沙門岳をやんぺして、北側の水後山(すいごやま)に変更した。毘沙門岳には若いころに登っているから未練はない。水後山は私にとって未踏峰である。こちらの方が値打ちがある。昔、石徹白に入るのに、越美南線の終点、北濃駅から歩いて桧峠を越えた。そして、毘沙門岳に登って上在所まで行ったのだ。若いころの話だが、よくそんな元気があったものだ。
水後山から降りて桧峠に戻ったとき、毘沙門岳方向から2人の婦人パーティーが降りてきた。ゴルフ場が場内を通らない新ルートをつくっているという。婦人らはそれを通って登ってきた。「どうでしたか」と聞いてみた。「崖っぷちに急造した道で、笹も生えて危険がいっぱい。ゴルフ場のおかげでえらい目に遭った。もう、2度と通りたくない」と大変な立腹であった。もし、このルートで遭難が起きたら、ゴルフ場は責任を取るのだろうか。「暗」が想定や感情の段階ならまだよい。もし、いい加減な登山道で不幸な事故が起きたとしたら、開発行為が取り返しのつかない「暗転」になる。ゴルフ場開発に際しての、行政の指導にも問題がありそうである。
                              (2011年11月7日、四手井 靖彦)

2011年11月8日火曜日

センチメンタル ジャーニー 2011.11.1~2 鎌田 克則

          石徹白の旅 写真物語

 川井、中村、鎌田、四手井、上嶋以上五名、好天のもと、111日、勇躍山科を出発、福井より美濃街道を大野に向かう。経ケ岳、荒島岳、銀杏峰、部子山が見えれば、話題尽きる事なし。鳩ケ湯より刈り込み池の予定が、道路工事で鳩ケ湯でストップ、紅葉の上に、別山、三ノ峰が見えただけで、大満足。
 
 石徹白川を遡る。今でこそ立派な道路だが、これが積雪期なら、さぞ大変だったろう。昭和34年に福井県から岐阜県に所属が移ったとのことだが、うなずける話だ。我々は、福井県時代に訪ねていたのだ。
 石徹白に入り、先ずは上在所の白山神社だ。
 古色蒼然足る大杉木立の中の神社のたたずまいは、清楚にして、真摯なる白山信仰の奥深さを感ぜずに居れません。

 
 何とチュートンさんは、64年ぶりだとの事。檜峠より毘沙門を登って石徹白に入った由、中在所でばてて○○旅館に泊まったとか、神社の鳥居のここ(今は神社の駐車場になっている)に石徹白○○さんの家があったとか、何を食べたとか、64年前のことをよく覚えておられるのに驚くばかり。
 都合よく向かいにその消息を知る人がいて、根ほり葉ほり聴く。詳しい内容は、チュートンさんの報告に譲ります。

 

宿はカルヴィラいとしろ、石徹白の下在所が見下ろせる。宿は我等5人のみ。

  翌朝、檜峠へ。毘沙門に登るべしが、ゴルフ場になっていて、ゴルフ場側と通せ、通さぬで押し問答 (後で下山者に聞いたら、回避道はひどかったとのこと)結局諦めて北側の水後山へ。スキー場を登り、後も快適な登山道,標高差500mをなんとか登り1586mの頂上へ。大日岳の頂上が見えないのは残念だが、晴天下、紅葉の石徹白、美濃の山々が見渡せる。それぞれ思い出す事多し。
 

 
後は一路下山。そして北濃、白鳥経由帰京。
それにしても、北濃より、雪道を歩いて、檜峠を越えて石徹白まで、よくぞ入ったものだ、と言うのが、皆の共通の感慨でした。

鎌田 記