2011年6月18日土曜日

山行計画いろいろ
北山の台杉とホタル見物
時期:7月2日午後2時、花脊の大悲山分れ、「はしもとや」集合。広河原の下野町へ移動。徒歩で井ノ口山(779.1m)に登る。三角点近くに台杉の古木群がある。樹齢は屋久島の縄文杉より古いという説もある。上りに40~50分、杉本善夫さんの案内。5時半ごろ「はしもとや」に戻る。6時から懇親会。8時から桂川のホタルが舞い始める。問い合わせ、杉本善夫(ys3010.mt3190@ray.ocn.ne.jp)。

美濃・蝿帽子嶺(1037.3m)と越山(1129.3m)
時期:7月中旬の梅雨の晴れ間の数日
第1日、京都→(大垣回りか福井回り)→根尾西谷川小倉谷合流点付近テント泊。
第2日、小倉谷とコワタビ谷の間の尾根道から蝿帽子嶺→(越美国境尾根を縦走)→越山→小倉谷→テント地

根尾西谷から越前へ越える蝿帽子(這法師)峠は、幕末、勤皇の水戸天狗党が美濃から越前へ逃れた古道という。現在も美濃の山には珍しい山道がある。蝿帽子嶺と越山に登頂し、時間があれば、小倉谷でイワナ釣りを楽しむ。

大朝日岳(1870m)と飯豊山(2105m)
時期:8月4日~
第1日、京都→(名神・東北自動車道)→朝日鉱泉
第2日、朝日鉱泉→鳥原小屋
第3日、鳥原小屋→鳥原山 (1430m)→小朝日岳(1647m)→大朝日岳(1870m)→二股→朝日鉱泉→飯豊山麓へ移動
第4日、大日杉小屋→地蔵岳(1539m)→御坪→飯豊山(2105m)→本山小屋、あるいは切合小屋泊
第5日、下山、どこかの温泉に泊まる。

朝日連峰は10年くらい前から温めていた計画である。当初は北からの縦走を考えていたが、年齢を考慮し、朝日鉱泉からとする。せっかく山形まで行くのだから、ついでに飯豊にも登る。いずれも、問い合わせは鎌田克則まで。

紅葉を楽しむ懐かしの山めぐり
美濃から飛騨へかけての山域は、諸先輩から“若手”まで、多くの皆さんにとって懐かしの山域であろうと考えます。そこで、紅葉の時期に、それらを訪ねる先輩、“若手”交流のドライブ山行を考えました。3案あるので、参加ご希望とルートの選択をお願いします。むろん、1泊で、飲みながらの懐古談、新たなるご提案などの歓談を楽しみにしています。

プラン1:美濃 京都→(名神、北陸道)→福井→大野→温見峠→根尾→馬坂峠→徳山ダム(徳山会館泊)→冠峠あるいは高倉峠経由で北陸道、名神で帰京。徳山ダムからは揖斐川を下り、藤橋村、坂内村を経て八草トンネルから北陸道へ出てもよい。美濃から越前へ抜ける逆コースも可。日本一の徳山ダム見学と美濃の紅葉が狙い。11月初旬がベスト。徳山会館はダム見学者のための宿泊施設。

プラン2:白山、鳩ヶ湯、石徹白 京都→(名神、北陸道)→福井→大野→平泉寺→鳩ヶ湯→刈り込み池→石徹白(カルヴィラ石徹白泊)→白山神社→桧峠→白鳥→(東海北陸道、名神)→京都。大日岳登山などで懐かし石徹白の探訪。

プラン3:白川郷、新穂高温泉 京都→(名神、東海北陸道、または、北陸道、白山スーパー林道)→白川郷→天生峠→神岡→新穂高温泉(泊)。西穂ロープウエイ往復→平湯→高山(できれば、飛騨随一の展望を誇る猪臥山=1519mに登る)→飛騨清見→(東海北陸道、名神)→京都。

時期は紅葉期の10月20日から11月初旬。この時期の土日、祝日は高速道路が渋滞するので、週末前後の、例えば、日、月曜とか祝、翌日などがよいと思われる。なお、交通機関は主として車、できるだけ一つの車輌で。例えば、MKジャンボTAXI、小型チャーターバス、10人乗りレンタカー。一つの車両が無理なら、マイカー持ち寄り。 
問い合わせ、鎌田克則(RAC-KAMADA@tkcnf.or.jp)  
鎌田さんに代わって、edel-ysの四手井が投稿。

2011年6月17日金曜日

2011.5.1~5 ヘリで登る 太郎・薬師岳・北ノ俣岳 スキー行                 鴨6 鎌田克則

以前、太郎小屋等の管理に携わった友人のお誘いで、同じく5月のGW、ヘリで同ルートを滑った事がある。特に薬師沢右俣上部の豪快な滑りが忘れられなかった。
 今回は、北海道でいつもお世話になるサッポロマウンテンの石坂ガイドのお誘いである。RUWVの木村恒夫さん、湯浅修太郎さん、北山の会の上嶌秀夫さん、ゆきうさぎの松下夫妻と山内さんの計7人が同行、賑やかである。
 5月1日(日)昼過ぎ自宅よりピックアップされ一路立山山麓のロッジ太郎に集合する。

 5月2日(月)朝8時頃ロッジの車で、何やら人里離れた森林地帯へ。前回もそうであったが、要は資材運搬用の大型ヘリに乗るのだが、我々は資材扱いか、小屋のスタッフ扱いか。
 我々は一番機、8~9人単位で3~4回往復する様だ。因みに料金3万円。
 今回は窓側だったので、ぐんぐん上昇し、またたく間に雪山が足元に去って行く。これがもう少しゆっくりなら、自力で登っている感がしなくもない。本田勝一さんがそんな事を書いていた。
 正味5~7分位か。標高2,320Mの太郎小屋横に到着。ヘリは即取って返す。

太郎平到着のヘリ

 薬師、北ノ俣、黒部側の山々も見えるのだが、何だかセピア色で迫力が無い。黄砂なのだ。
 ゆっくり休んだ後、北のノ岳(2,661M)を往復する。
 下りは、昨日の雨が氷り、雪は最中状、思った程快適では無かった。

 5月3日(火)朝から晴れている。薬師岳行きだ。何やらそわそわ準備する。8時頃出発、一路北西方向へ。今日は黄砂の影響もなく、正面に薬師山塊、右に水晶、雲ノ平、鷲羽、三俣蓮華、後に、北ノ俣、黒部五郎が手に取る様だ。
 薬師峠に下り、シールを付けて薬師平経由、薬師山荘に向う。途中後方に槍、穂高がくっきり。山荘にて若干弱い人達が補助ガイドと残り、最強4人?が石坂ガイドと本峰へ。
槍ヶ岳・その右に穂高も
薬師岳は廻りがカールに囲まれ、大きくてたおやかな峰である。頂上手前の避難小屋辺りから頂上稜線は、やはり3、000Mの厳しさが窺がえた。
薬師岳頂上の祠。左は立山方面
 
  2,926M薬師頂上。所々雪が飛ばされていて神社の祠も殆ど出ている。しかし何と云ってもその先に立山、弥陀ヶ原、そして剣が堂々と望める。立山が何だか尖って見える。
シールを外して薬師の西斜面の上部の雪を拾い乍ら南にトラバース。避難小屋跡のピークを西から南に廻り込んで薬師沢右俣源頭に立つ。やっぱりガイドはここを狙っていたのだ。
 前回快適に滑った記憶があり、その時よりも技術は上達している筈と自分に云い聞かす。始めはそこそこ急斜面、それに無木立、谷底迄標高差7~800M、日本ではそうそうお目に掛かれない一枚バーンである。
 
薬師沢右俣の一枚バーン 薬師平より

ガイドが滑り出す。1人2人追いて出る。私も思い切って1回転、まずまずである。しかし数回回転すると大股がつらい。要は姿勢が引け気味の上に、回転の後部で沈み過ぎるのであろう。技術の向上より加齢による体力減が響いている様だ。数回から10回転毎に一息入れ乍ら、見る見る高度を下げる。段々雪も緩み出し、やたら暑くなる。谷も左に曲り出し斜度も落ちる。概ね標高2、200M辺りか。右斜面よりいくつかの雪崩跡あり。その辺りで大休止となる。何たって圧巻の滑り、皆満足そうである。
 その後右の急斜面を、雪崩にヒヤヒヤしながら登り、2,448Mピークの北按部に出、薬師平の西斜面をトラバース気味に滑り、薬師峠に何なく降り立つ。さすがはガイド。見事なコース取りである。
 その頃より天候悪化。吹雪気味となって来たので一直線に太郎小屋に戻る。

 5月4日(水)好天である。ガイドは北ノ俣より東北に出ている尾根を滑ろうと云う。文句なし。見渡す限り山スキーの楽園なのだ。
 北ノ俣頂上手前2、576Mの辺りより北東に滑り出す。実に滑らかな上に、時折樹林があり、全くカナディアンロッキーの雰囲気だ。自在に滑り乍ら段々高度を下げて行く。遂に薬師沢左俣出合い迄滑ってしまった。もう黒部本流も近い。
  
薬師沢左俣出合い 付近のメンバー
 
楽あれば苦あり。それから薬師峠迄ひたすら谷を登り返した。もう充分だ。そのまま小屋に戻った。
 その夜、夕食事時、ビールが振る舞われ、太郎小屋の主人他スタッフの挨拶があり、一寸したパーティとなった。何時の間にか、小屋の宿泊者も3~40人程度になっており、打保、飛越トンネルより、寺地山~北ノ俣経由で登って来た人たちも加わっていた。立派なものである。私も一度寺地山より北ノ俣を眺めた丈で、尻尾を巻いて帰った事がある。おまけに帰りのルートを誤った。

 5月5日(木)この日も好天。今日は下山の日、小屋の主人も一緒に下ると云う。
 最初の太郎兵衛平のゆるやかな斜面は西斜面なので、朝は陽が当たらずカリカリ。全く惜しい話だ。途中から緩み出し快適に滑る。折立の手前で一寸した谷に入る。我々にとって、いつもの藪山スキーの感。
 

有峰湖が見える!!

11時頃折立に着く。何と2台の車が待っている。この辺りの手配が憎い所だ。有峰湖を少々廻って有峰林道を下る。昨秋たまたま訪ねた有峰湖周辺の紅葉を思い出す。
 ロッジ太郎に戻り、風呂に入って一路大阪へ。今庄で事故渋滞には弱った。

2011年6月15日水曜日

鴨沂高校の山岳部廃止に思う
 かなり以前から気になっているのは、鴨沂高校山岳部の廃止についての経緯である。もう20年以上昔のことになるが、竹内康之君(昭45卒)が母校へ行って調べてきたことがある。1968年に廃部だったことは聞いたが、それ以上のことはよくわからない。
 登山を取り巻く環境は時代とともに変化し、山岳会も変貌した。大きな変化は、尖鋭的登山を担った学校山岳部の衰退である。戦前から著名であった大学山岳部は部員不足に泣き、廃部の危機にあるものもあると聞く。高校山岳部が衰退するのも当然であろう。
 学校山岳部が衰退したのはなぜか。パイオニアワークの終焉と無関係ではない。言うまでもなく、近代登山の根本思想は初登山にあった。1950年にアンナプルナⅠがフランス隊によって登頂されると、1953年にはエヴェレストがイギリス隊に登頂を許した。1950年代にはヒマラヤの8000m級が次々に登られ、1997年に8000m級14座の最後、ガッシャブルムが落とされ、ヒマラヤの初登攀時代は終わった。初登山を目標にした近代登山の終焉である。
 山岳会は目標を失った。学生団体は知的で、常に新しいものを目指す方向性を持っていると言ってよい。彼らにとって、初登山は極めて魅力的な目標であった。単なる山岳逍遥なら、ワンゲルと変わらない。山岳部そのものが存在理由を失った。これが、高校も含めた学校山岳部衰退の背景にある。
 高校山岳部の衰退には、もう一つ大きな要素があった。それは遭難の増加である。ヒマラヤの黄金時代は同時に登山ブーム時代の始まりであった。日本隊のマナスル登頂も大きな影響があり、中高年が登山を始めるきっかけともなった。当然、遭難も増加した。高校生の遭難死も避けて通れなかった。
 登山は危険であるという考えが、学校当局や教育委員会、文部省といった機関の主流になり、高校生の登山活動にブレーキがかかることになった。学校行事としての登山活動中の死亡事故には、賠償責任が伴うからである。2011年5月に北山で会った元洛北高校山岳部顧問の村上宅也さんが証言した。「高校山岳部の廃止は、当時の文部省の方針だった。特に、冬山は厳禁であった」。鴨沂高校の廃部がこの方針の路線上にあったことがわかる。

 筆者が駆け出しの新聞記者だったのは、経済の高度成長期の始まったころで、建設、開発事業に火がつき、ダンプカーが走り回り、死亡事故が急増した。その取材に走り回った。もう一つ、小学校にプールができて、体育の授業に水泳が行われるようになった。たまに児童の水死があった。サツ回り記者として、そんな取材にも行った。
 担当の教諭が言った。「もう、水泳の授業はやりたくありません」。情けないヤツだと、腹の中で思った。むろん、事故はない方がよい。学校は事故防止に万全を期すべしである。だが、学校に限らず、人間社会において、どんなスポーツでも、100%の無事故はあり得ないのだ。教師たるものは不幸な事故に遭遇すれば、二度と事故は起こさない誓いとその方策、それを乗り越える気概というものが必要なのではないか。
 登山には危険な要素があるかもしれないが、自然に親しむという意味で、いい趣味であり、クラブ活動としても適切であるはずだ。遭難を恐れる、上からの通達があるからと、簡単に廃部してしまうのはいかがなものか。廃部に同意する教師は、水泳の授業を拒否する小学校の教師と同じ、情けないヤツである。教育者としての資質を疑う。
 高校の山岳部がヒマラヤへ行った例はあるが、一般に、高校生がいきなりヒマラヤの未踏峰を目指すわけがない。たいてい近くの低い山から始め、在学中にはせいぜい3000mクラスの夏山までではないだろうか。
 山に登るということは、頂を目指すと同時に自然に親しむことである。自然の恩恵、四季それぞれの景色の移り変わりに接し、豊かな情操を育むことになる。自然保護、自由の思想も身につく。また、登山は強靭な精神も養う。困難に立ち向かう勇気と気概が求められる。自立の精神もまた培われる。山登りは人様について行けばいいというものではない。チームワーク、組織というものがわかる。義務と責任の観念が理解できるようにもなる。
 学校のクラブ活動として、これほどいいものはない。むろん、他のスポーツ、スポーツ以外の文化部の活動も悪くない。それぞれの存在理由がある。だが、危険だからと、あっさりと山岳部を廃止してしまってよいものだろうか。
 恐らく、廃部した学校には、顧問となるべき優れた指導教師がいなかったのだ。教育委員会に飼いならされた事なかれ主義、何にでもビビってしまう弱虫教師しかいなかったのではないか。日の丸に敬礼!と言われればペコペコ頭を下げ、君が代斉唱!と言われれば、嬉々として唱和する輩であろう。こんなのに、登山指導ができるわけがない。

 卒業生として、鴨沂の山岳部廃止は残念に思う。OB会「北山の会」の人材供給にも支障がある。だが、しょうがないかな、という気分も打ち消せない。未来永劫にわたって不変の価値などあり得ない。登山界が変われば山岳会も変わるのだ。学校山岳部が廃れ、高校山岳部が廃止に追い込まれるのも、一つの時代の流れかもしれない。
 かつて京都の北山を跋渉した高校生に代わって、アウトドアショップで買いそろえたコスチュームに身を固めた中高年のおじさん、おばさんが跋扈する。流行りの「山ガール」スタイルもいるぞ。登山の俗化などとは言うまい。いつの時代にもビギナーは存在するのだ。
 三高山岳部報告第5号(昭和2年1月)にこう書いてある。「…道路を改修したので、今では貴船神社の前まで乗合自動車が行く様になった。それとともに近来は鞍馬、貴船に遊ぶペデストリアンの数が非常に増加してきて、遂に幽邃な貴船川の風致を『枝折取るべからず』などと書いたペンキ塗りの制札によって傷けしめるに至った…」。
 小豆坂から柳谷峠。魚谷峠へ向かう人たちのメインルートである。夏山シーズンを迎えた日曜日なら、登る人、降りてくる人にしばしば出くわす。登山人口が増えるのは必ずしも悪いことではない。大いに山を楽しむがよい。だが、一つだけお願いがある。どうか、ゴミだけはほかさんと、持って帰っておくれやす。

                           (2011年5月27日、四手井 靖彦)

2011年6月2日木曜日

2011.4.17(日)死に物狂いで登ったホハレ峠より蕎麦粒山(1,292m)               鴨6 鎌田克則

 蕎麦山、その急峻さと藪で鳴らした山である。片やホハレ峠も、嘗ての徳山郷より戸入、門入を経て川上に至る峠。一説に『頬が腫れる』の名から付いたと云われる程の厳しい峠である。
 一昨年残雪期、隣の土蔵岳に登った時、ホハレ峠とその上に秀麗な蕎麦山を見せ付けられ、弥が上にも登行欲をそそられた。
 積雪期、無雪期の偵察から、距離が有り過ぎて、ホハレ峠辺りに前進キャンプが必要と考えていた。
 4月17日(日)、好天が予測され、前週の金糞岳の快調さから、一度蕎麦山にラッシュを掛けてみようとなり、朝5時前車で自宅を飛び出し、又小林さんをピックアップ。名神、北陸、木ノ本、八草トンネルを抜け川上へ。坂内川の右股左岸300M進んで残雪でストップ。(7:30)躊躇なく林道を辿る。時速3KM、休まず進めば稼げるものだ。
 2度目のターンの先には、前週登った金糞岳の北面が輝いていた。ホハレ峠手前の3度目のターンの後、2つ目の北向きの谷に突っ込む。(9:30)始めは雪で埋められていた谷も、間もなくズタズタに。右の枝尾根にかじり付き、ひたすら上へ。1時間半の苦闘の末 948稜線に達す。(11:00)そこは雪庇の張り出し部分が崩落して歩き易そうな尾根。それに蕎麦山の三角垂の端正な姿がドーンと現れる。何とか射程距離に納まりそうだ。

 

ピークの麓迄1時間、(12:00)ピークの登りに1時間と踏んだが、近付くにつれ、これから登る、頂上より南西に伸びる急峻な尾根は、日当りが良いのか斑である。事実突っ込んで見ると、猛烈な藪と大きな雪塊が交互に立ちはだかる。藪の下には踏足があるが、直ぐ雪の下に消える。格闘する事小一時間、頂上方向を見るとまだまだ。又小一時間してもう頂かと上を見ても全く同じ姿。

要は稜線は放物線形をしていて、登っても登っても上が出て来るのである。苦闘する事2時間。それも尽きる時が来た。その先には、見慣れた越美国境の山々が並ぶ。頂上である。何と尖った雪庇の矛先、カメラを撮ろうにも怖くて突き刺したピッケルから手が放せない。跨るしか無い。恐る恐る小林さんと頂上交替。(14:00)
後は一目散。何とか明るいうちに林道に達したい。元来たルートを必死に戻る。よく見れば数米はあろうかと思われる雪庇が続く。

次々と分岐を確かめ、当初突っ込んだ谷の上部に達す。藪が出だすとルートが解らぬ。所が用心深い小林さんは黄色の目印を付けていた。
これが非常に役立つ。右か左か迷っている閑は無い。下って下って下る。しかし林道が出て来ない。ルートを誤ったか。否黄色の目印がある。
暮れ泥む頃林道が現れた。(18:30)何とか帰れる。腹に何か入れるか。いや見える間は少しでも進もう。日が暮れる。ヘッドライトを出す閑も気力も無い。ひたすら歩む。先に発電所らしいシルエットが見え、突如白い我がレガシーがそこにあった。(19:30)
 何と朝7:30分ここを出て、帰って来たのが19:30分。殆ど休まず実動12時間。唯々蕎麦山の頂上に達しがたい為。これが本当の山登りなのだ。
それから2時間半運転して家に帰った。(ドライバー私のみ)何と全長17時間のアルバイト。75才にして我ながら殊勲甲。