2013年10月25日金曜日

台風18号による山科牛尾観音道の惨状と今秋の紅葉

                                                                                                             鴨6 鎌田克則

この1014日たまたま連休日、天気が良いので、久しぶりに山科、音羽山山麓の牛尾観音を訪ねました。
 
京阪追分駅より高速をくぐりいよいよ観音道に入って間もなく、何時もなら車も入る道が、あの台風18号の豪雨で河川決壊、目を覆うばかりの惨状、歩くのも危険を感ずる程のひどさでした。唯信仰心一途、参る人が何とか通れるように手を加えて居られ、これまた心打たれました。
 
  観音堂自身は無事でありました。今は無住と聞きましたが、昔中学生の頃、よく陽の当たる縁側より、住職さんの様子を伺ったものです。

もう車はとても通れるようにはならないと思いますが、人は歩けるようになると思います。時々訪ねようと改めて思いました。

 
 
所で今年の秋の紅葉は遅れていますね。それに色も良くありません。10月初め北海道大雪周辺はそれなりでしたが、20日頃訪ねた奥飛騨~有峰湖辺りは、かなり遅れ気味でした。トピックスは飛越トンネル手前の打保近くで旅館を見つけたことです。来春はそこをベースに寺地山周辺,事によっては北の俣を狙いたいものです。
 


2013年9月9日月曜日

追憶の旅 冠山と徳山ダム

 中村 淳


通信3号に載った例会案内「徳山郷の沈む徳山ダムを訪ねる」に参加した。案内では、車で徳山ダムに入り、日本一のダム湖畔に建つ徳山会館に泊まり、翌日、冠峠で冠山を眺めて福井県側へ降って帰ることになっていた。


 奥美濃の昔の思い出が蘇り、冠山とまだ見ぬダム湖に思いを馳せた。シタ谷の出合は水没したのか。その焦点にあるのは64年前の85日の出来事だ。

シタ谷第3の滝の右側を登る
昭和2483日、鴨沂高校1年生の夏山山行で一年上の伊谷晃と二人で京都を発ち、今庄から高倉峠を越える。4日は赤谷を下り、シタ谷の出合の樵小屋に泊まる。

翌朝、シタ谷を遡行し冠山を目指す。第1の滝、第2の滝を巻いて、冠山岩峰直下の第3の滝に至る。左右は岩壁、正面の滝は左寄りにあり、右側の壁を登ることにする。

 伊谷が空身で滝上へ登り、細引きを垂らすが下まで届かず、中半まで降りてザックを引き揚げようとしたが、スリップして怪我なく着地する。

 中村がザックを背負って先に登り始める。残り僅かな処で三点支持の体勢が崩れる。「死ぬ!」次の瞬間、気を失う。青い水と白い泡の中で気を取り戻す。滝壺の端に落ちたことで滝に巻かれることなく、九死に一生を得ることができたのだ。

 伊谷に助けられ横になるが、胸を打ち、息苦しい。自分が何故ここにいるのか?一時的に記憶が喪失する。伊谷に助けられて、ゆっくり慎重に谷を降る。徳山のトラック運転手の家に泊めてもらい、翌朝、荷台の木材の上で丸太にしがみ付きながら岐阜まで送っていただいた。大失態を呈し、伊谷先輩に申し訳ないことをしてしまった。

以下、この出来事の追憶の旅が始まる。

出発を前に、鎌田リーダーから計画書が届いた。この日に限って徳山会館が貸し切りで予約が取れなくなり、冠山の北側の池田町にある冠荘に泊まり、翌日、冠峠を越えて、徳山会館で昼食をして帰ることになった。

冠荘の玄関前 鎌田L、セキトン、チュウトン
平成25824日、鎌田リーダーの車に高橋修(セキトン)、川井久造(チュウトン)、中村淳(ニャンコ)が同乗、4名で京都の烏丸御池を⒓:40に出発する。京都東ICから高速道路に入る。車の流れはスムースだ。甲賀SAで休憩、鎌田リーダーが昼食を摂る。この間にチュウトンは別席で喫煙タイム。

北陸道に入り、福井県に入る。走行中、セキトンが地図を見ながら山の思い出話を始める。次から次へと話は尽きない。武生ICを出て国道417号線を東へ進む。最高級のカーナビの指示通りにくねくねと街中を抜けて山間部を走り、池田町の平野部に入り、1600冠荘に到着する。

4名一緒に大部屋に入る。早速浴衣に着替えて入浴、肌がヌルヌルする温水で温泉気分だ。鎌田リーダーは塩素を加えているのだという。
部屋に戻り、湯上りのビールを飲みながら地図を広げて、昔話が弾む。セキトンの20万分の一と5万分の一の地図のファイルが素晴らしい。赤線に 入ったピークに日付が細かく記入されている。川浦谷の話は何度も聞いているが、チュウトンの話は熱い。

山の幸が並ぶ
夕餉の時間となり別室へ移動する。山里の夕食膳には清流の魚や山菜が並ぶ。
ビール、焼酎を飲みながら、話は64年前へとタイムスリップしていく。セキトンが地図を広げ、まず能郷白山の苦労話が始まる。
 昭和243月、秋田と二人で岐阜から長島に入る。3日目に登頂するが、思いがけない降雪で腰までのラッセルに悩まされ、13時間苦闘を続けて温見に着いたのが午後9時だったとのこと。


話はまだまだ続くが、ほどほどに切り上げて部屋に帰る。外は雨だ。

825日、今朝も雨だ。730に朝食。出発する前に諸費用を精算し、一人15,000円を鎌田リーダーに支払う。
冠荘を830に出発する。雨の中、今日も417号線の山道を冠峠へと登る。道幅が狭く、他には深く急峻だ。鎌田リーダーの慎重なハンドルさばきで高度を稼ぎ、925冠峠に着く。
この姿の冠山を見たかった


ここから東方向に冠山の鋭鋒が眺められるのだが、一面のガスで残念だ。ガスの切れ目を期待して、30分ほど車中で待機する。その間、ドライバーは睡眠をとる。

状況が好転しないので諦めて車を発進、一気に徳山ダム湖へ降る。赤谷の出合は既にダム湖に浸かっている。あの時、冠山を目指したシタ谷の出合も沈んでいる。

駐車場に車を停めて国道の橋中程まで行き、シタ谷を見下ろす。目の前に谷を跨ぐ橋梁が建設中で、景観を遮っている。昔の面影はない
 シタ谷の出合はダム湖
この橋梁の先は、冠山の下を貫通して福井県側へつながるトンネルが工事中だ。写真の手前は作業用の仮設足場で、その奥に長大な梁が懸っている。

この417号線のトンネルが完成すると、峠越えの道はどうなるのだろうか。

それまでにもう一度冠峠を訪れたい。





次に車でダムサイトへ移動する。堤高161m、堤頂長427mの巨大なロックフィールダムだ。総貯水容量66千万。この湖底に徳山郷466世帯が沈んだのだ。

このダムの目的は洪水調整、流水の正常な機能維持、新規水利、発電という。
果たしてこの目的をどこまで達成しているのだろうか。



帰路は417号線を横山ダムまで下り、303号線に入って西へ走行、八草トンネルを抜けて、木之本IC1340着。ここから高速道路に入り、順調に走行して1450に京都東ICを出る。

昨日の出発地点帰着1510、烏丸御池で車を降りて、シニア4名のセンチメンタルジャニーが終わった。

悪天候の中、二日間に亘り安全第一に慎重運転をしてくださった鎌田リーダーに厚くお礼申し上げます。

懐かしい思い出深い旅でした。







2013年9月1日日曜日

古い登山道具を集めています。皆様お持ちですか??

最近、健康上の理由で山歩きにドクターストップがかかり、しょんぼりしていたのですが、これを機会に、少し方向転換して、古い山の本や道具を整理してみようと思い立ち、家中の山に関する本を集めてみた。昭和16年発行の「近畿の山」や「1956年1月号の岳人105号」などかなり古い本や雑誌など約300冊ぐらいが出てきて並べることができた。自分が使っていた革製の登山靴でスキー靴との兼用靴や、スキーの締め具の古いフィッツフェルトなども箱の底から出てきたので、空いた部屋に並べてみると結構なものが出来てきたが、足らないものも多くある。
皆さんが不要になった、古い山の本や古い登山道具(例えば、単板のスキーとか、8本爪の炭素鋼のアイゼンとか、ホエーブスや衣類、竹のストックなど言えば限りない)をお持ちの方で、これは、「くれてやってもいい」というものがあれば、着払いでお送り頂ければ、何か丹後の特産品をお送りすることを条件にお譲り頂くことは出来ませんでしょうか?勿論高価な代金はお払いできませんが、薄謝程度のものをお送りします。
虫のいい話ですが、どうかご理解ください。       太田 亙

2013年8月15日木曜日

笹ヶ峰-火打山



笹ヶ峰-火打山

はじめに

火打山(2462m)は新潟県の西端近くに位置し,その西の活火山・焼山(2400m),東南の休火山・妙高山(2454m)などとともに一つの山塊(頚城山塊)をつくっている.先月(7月)これらの山の麓の京大ヒュッテと山上の高谷の池ヒュッテを利用して火打山に登ってきた.私がこの山に最後に登ったのは1958年夏だから,55年ぶりの登頂ということになる.
私が火打山に初めて登ったのは19553月,高校1年の春休みで,同級生部員の仲田道彦くん,尾西寛司くんと一緒であった.私たちは京大ヒュッテのそばの営林署小屋に泊り,日帰りで登った.スキーにシールを着けて上がり,下りはそれを外して滑って下りた.積雪期に高校1年生だけで登ったということは,年齢の割に,体力,ルートファインディング,そしてとりわけ山スキーの技術が,なかなかのものであった,ということだろう.今はそんな馬力はないし,スキーはサルの研究を初めて以後50年以上やっていないのでまったくダメだろう.
1957年に京大に入り,山岳部にも入った.すると,夏の数日間を笹ヶ峰ヒュッテに泊り,毎日火打山に登ることは部員,とりわけ1年と2年部員にとってほとんど義務となった.それは次のような理由からである.ヒュッテは夏季には一般に開放され,毎日数十人が宿泊し,彼らからもらう宿泊費がクラブの重要な資金になる.いっぽう部員は彼らのお世話をせねばならなかった.お世話というのは主として食事を作る手伝いと登山のガイドで,登る山はほとんどの場合火打山であった.火打山登山はすべて日帰りで,ヒュッテを出てそこにもどるまで平均8時間であった.ガイドしたお客のほとんどは女子大生で,普通の運動靴で雪の上でも平気で歩き,すこぶる元気であった.
今年の5月中ごろ,芦見谷の須川邸に,久しぶりに京都に来ている田中二郎をかこんで,同級の太田亙,上嶌秀夫,後藤二郎が集まり,それに森山英隆と私が加わった.その席で一緒に山に登らないかという話しになり,それでは京大ヒュッテに泊って,火打山に登ろうではないかと田中二郎が提案した.彼は長年京大山岳部・部長をやっており,1999年の笹ヶ峰ヒュッテ大改築では,建設委員長,募金委員長として大きな貢献をした.2004年に定年を迎え,それ以後現在まで安曇野市・穂高に住み,笹ヶ峰には毎年数回来ている.彼ほど,笹ヶ峰と火打山をまことによく知っている
プランの細かいところは彼と私で決めて行った.私たちの一致した意見は「年齢を考えて無理をしない」ということである.具体的には,学生時代のように,笹ヶ峰から火打山往復を日帰りでやるのではなく,高谷の池ヒュッテで1泊し,2日がかりで登ることにした.田中や私と近い世代の京大山岳部OBが,かつて女子大生と8時間ほどで楽々往復できた,という記憶に基づき日帰りプランをたてたが,彼らのどのパーティーも12時間ほどかかり,へとへとになってヒュッテにもどっている.70代になったら,体力・脚力は20代の時の半分,よくて3分の2と思ってプランを立てるべきである.
今回の12日プランは大変よかったと思っている.初日は6時間弱歩いて,小屋に泊り,十分睡眠をとることができた.おかげで翌日は10時間歩き,しかも8時間はどしゃ降りにちかい雨のなかであったが,快調であった.

山行要約

メンバー
田中二郎(洛8),上嶌秀夫(洛8),須川眞一(洛8),須川昌子(真一氏夫人),西邨顕達(洛6),高鍬 博(鴨19) 以上6名,これ以外に京大ヒュッテには来たが,山に登らなかったもの:後藤二郎(洛8),井上和夫(洛8),伊達 豊(洛8),西邨恵美子 以上4名,総計10名.

時間記録
2013722日. 高鍬,西邨,後藤,伊達,田中の車に分乗し,1417時に笹ヶ峰京大ヒュッテに集合.夕食は西邨が前日に作っておいたカレー.食前,食後は運んできたビール,ワイン,酒,種々のオードブルで盛り上がる.

723日.登り口(駐車場) 836 →黒沢 9541008→ 「十二曲がり」 1105-1110 → 富士見平(昼食) 1230-1312 →高谷の池ヒュッテ 1414--.夕食(1730)まで飲む.ヒュッテ提供の夕食はカレー!! 1930 には全員就寝.

724日.起床 500,朝食 530.高谷の池ヒュッテ 625 →天狗の庭 700 → 火打山頂上 850-900 →高谷の池ヒュッテ(昼食) 1037-1132 →富士見平 1235 →「十二曲がり」 1356-1418→黒沢 1506 →登り口(駐車場)1645
火打山頂上に着く少し前から降りだす.高谷の池ヒュッテに下りて来た時は本降りになる.それで早いがここで昼食.以後下りは最後までほとんどドシャ降り.昌子さんは昨日に続き,頂上まではすこぶる快調.しかし下りはバテバテで,何十回も尻もちをつく.また,高鍬が十二曲がりの上の大きな丸岩の多い難所で,あわや頭を打つかという転倒をする.
夕食は須川が用意したバーベキュー.

725日.朝食はパン,コーヒー,ベーコンエッグ,リンゴ.朝食後部屋を掃除して解散.

2013815日,西邨顕達)






京大ヒュッテ内リビング・ルーム

全員集合 須川の顔ブトに刺され腫れている


ハクサンコザクラ

ハクサンシャクナゲ



2013年6月26日水曜日

鴨沂山岳部の廃部時期について訂正

鴨沂 8期 四手井 靖彦

北山の会のブログに20116月、「鴨沂高校の山岳部廃止に思う」なる一文を投稿した。その中で、廃部の時期を1968年と書いた。この年代は間違いであった。最近になって、そのことの指摘を受けた。データを確認せず、伝聞に頼ったのが間違いだった。

前同窓会会長だった鈴木正穂さん(鴨沂山岳部19)から鴨沂高校の校内誌「OUR SCHOOL OHKI」に廃部を示す資料があるとの教示を受けた。鴨沂高校へ出向き、校内誌のバックナンバーを検証した結果、廃部は1988年春であるとの確証を得た。謹んでお詫びし、訂正する。

校内誌に廃部のことが直接書かれているわけではない。そこに紹介されている1987年度(No.11) の部活動に山岳部が紹介されているのに、1988年度(No.12 )以降には載っていないことから、山岳部が廃部になったことが推察されるのである。

No.11 には、「本年度の活動としては、総合体育大会のオープン参加のみとなりました。…部員が3年生2人だけになったので、活動があまり活発でなくなってきました…」と柴田公孝さんが書いている。883月に3年生2人が卒業したとき、後継者が絶え、自然廃部につながったと考えられる。従って、19884月から廃部になったと認定し、それを関係者の共通認識にしたいと思う。

 

鴨沂高校は1948年の学制改革で、旧制京都府立第一高等女学校を舞台に、新制高校として発足した。旧制一中の校舎は新制中学になり、一中の生徒は鴨沂のキャンパスに移った。低学年は併設の中学に編入されたという。一中の山岳部員だった先輩たちが直ちに鴨沂の山岳部を興し、「北運」にルームを建てた。一中山岳部が場所を変えただけだった。一中の5年生だった人たちが、鴨沂の1期生である。

1988年卒は39期生ということになる。思えば、鴨沂高校山岳部も長く続いたものである。一中山岳部は大正年間の創設であり、学制改革でなくなるまで約30年存続した。鴨沂の山岳部はそれより長く続いたことになる。

 

 1980年代と言えば、植村直己がテレビスポンサーの支援で、ヘリによる食糧支援を受けながら北極点に達したころであり、目を海外に転ずれば、かのラインホルト・メスナーが8000m級14座の登頂を果たしたころでもある。

 オリンピックの特別メダルを拒否するなど、メスナーは個人的には評価するところもあるが、言ってみれば、登山のスポーツ化の代表選手みたいなものである。植村はスポンサー付登山という商業化時代の象徴的人物である。最近は80歳のスキーヤーがエベレストに登り、高齢者記録を塗り替えたと、マスコミが大騒ぎしている。近代アルピニズム=初登頂主義の時代が終わり、こうした登山の商業化、スポーツ化が顕著になり始めたころに、鴨沂の山岳部も消えて行った、と記憶しておこう。 (2013626日、四手井 靖彦)

2013年4月16日火曜日

憧憬のサンモリッツ


海外初スキーで技術を磨く

中村 淳


 昭和241月に山岳部の氷ノ山合宿で初めてスキーを教わって以降、毎年スキーを続けて64年となるが、いずれも国内に留まり、一度は雄大な外国のスキー場へ行きたいと機会を窺っていた。

 その機会が訪れたのは、昨秋、北山の会のメンバーと丹波の大江山に登山した時だった。鎌田会長から「来年1月にスイス・サンモリッツでスキーをする」と聞き、その場で参加を申し込んだ。

 鎌田会長からのメールで、参加者14名、2013112日~21日の10日間の計画が示され、続いて旅行会社のヒマラヤ観光開発の大島さんから手続き開始の書類が届いた。インターネットでゲレンデを調べながら、サンモリッツの雪に思いを馳せた。

 112、関空発23:45の深夜便で一路ドバイを目指す。10時間のフライトでドバイ着13日の8:00、ここで乗り継ぎ、ドバイ発10:00の便に乗り、6時間のフライトでスイス・チューリッヒ着14:00、関空からここまで18時間の移動となった。
 
 入国後、列車を2回乗り継いで、サンモリッツ着18:00、タクシーに分乗してクラブ・メッドに入る。ロビーラウンジではウエルカム・ドリンクが始まり、各国の人々で溢れている。松下さんと同室となり、315号に入る。関空を出てから26時間に亘る長い移動が終わった。その日の内にスキーを借りて、Class3を申告して明日の準備を整えた。
 
Club Med Hotel
 
 114、これから5日間のスキーカリキュラムが始まる。スキーヤーは初級のClass1から上級のClass5のグループに分かれ、それぞれのインストラクターに引率されて出発。初日のスキー場はサンモリッツの北に広がるCorvigliaだ。ゴンドラ乗場まで600m程スキーを担いで移動、結構な運動量だ。
 
 Class3は我々6名とドイツ、ロシアなどの男女を交えて12名。インストラクターは精悍な顔をした28歳のイタリア男性、6か国語を話すが、日本語は片言、共通語は英語で意思の疎通を図る。
インストラクター
 
 
 リフト乗り場で搭乗券が無いのに気付き、ホテルまで取りに帰ったため、午前中はClass3と別行動となり、自由に各コースを滑り、お陰で足慣らしをすることができた。
 


 13:15 標高2486mにあるClub-MedClass3と合流し、ホットワインを飲みながらバイキングランチを楽しむ。14:20 団体行動開始、インストラクターを先頭にロシア、ドイツの後に我々が滑り、森村さんがラストを務める。
 
 リフトを降りたところでインストラクターが滑降コースの注意事項と回転の技術指導を行い、先頭を滑りながら後に続く我々の滑り方を注目する。止まった時に、すぐ後ろの人に滑り方の個人指導をする。次に滑り始めるときに、彼に続く人が指名され、技術指導を受ける。こうしてこの期間中に全員がインストラクターの個人指導を受けることになるのだ。
麓のサンモリッツ
 
 Class3のスキー技術は、2本のスキーを平行にした状態で回転するパラレルターンだ。シュテム系のスキーヤは、回転時に外スキーが開く習性がある。自分自身これまでシュテム系パラレルターンをしてきたが、ここサンモリッツの数日間のスキー指導を受けて、パラレルターンを習得し、スラロームを楽しむことができた。
 
 115、スキー2日目は、バスに乗りサンモリッツの南西にあるCorvatschスキー場へ移動する。ゴンドラで標高2702mの中間駅Murtelへ登る。コース右サイドから外に出ないよう指示され、まず幅の狭いコース7を滑る。所どころ新雪の下にクラスとした雪面があり、山側エッジを効かさないと横滑りする。
 コース半ばでドイツ男性が転倒して頭を強打し、眼鏡フレームで鼻を切り出血。インストラクターは彼を寝かせて応急手当し、救護を確認するまで現場に留まる間に、別のインストラクターと交代し、Class3は滑降を再開する。
 このインストラクターの教え方が上手だった。1・2で膝を曲げて体を沈み込ませて、3で山側の足に体重をかけて伸び上がり回転するという簡潔な基本動作だ。

   この回転を確実にするために「1,2,3」と声を出しながら、上下の屈伸、左右の体重移動を確かめるようにした。視界不良のガスの中でも1--3と動作を確認しながら回転を続けることができた。
12:45 中間駅のClub Medで昼食、この間に救出を終えたインストラクターが合流する。14:00 スキーを再開、コース6を下り、Tバーリフトで中間駅へ登る。再びコース7を滑り、2497m地点からリフトで2643mのGiand alva へ登る。ここから上級コース5を通ってサンモリッツまでの大滑降が始まる。
 
滑降コース
 
眼下のサンモリッツの街を観ながらスラロームを楽しむ。広い斜面に出たところで右手の新雪面に入り、雪の感触を味わいながら滑降を楽しんだ。
 
116、スキー3日目は初日と同じCorviglia、ゴンドラを降りてリフトLで登り、Corviglia 2486mからMurguns 2278mへ滑降、右手のリフトSLas Trais Fluorsに登り、コース2223から25の林間コースを通って麓のイタリア村Celerina 1720mへ下る。
ここからゴンドラEMurgunsへ戻り、リフトRQCorvigliaClub Medに入り、ホットワインを飲みながらランチを楽しむ。
 
Club Med
 
 
後半は、コース8-4を滑降、リフトL2659mへ登り、コース4のスラロームを楽しみながら、コース28の林間道を一気に滑り、St.Moritz Bad 1772mに降る。ここからバスでホテルへ帰るり、Class5の高鍬さんが転倒、骨折で入院したとの情報を聞く。
 
夕食時に病院から戻った鎌田、上嶌さんの二人から話を聞く。右膝を骨折し、無事に手術が終わったとのこと。鎌田さんが旅行社の大島さんに電話し、この事故をカバーする傷害保険の手続きが開始された。
 
1173日間のスキーで足腰が疲れたこともあり、スキー4日目を休息日とし、高鍬さんを鎌田、倉橋、中村の3名でお見舞いに行く。鎌田さんは歩きながらも大島さんと交信し、情報交換が絶え間ない。
病院KLINIK GUTは街の中心部の山手にある。2階の15号室に入りと、高鍬さんが明るい顔で迎えてくれた。早くも歩行訓練が始まったとのこと、これには驚いた。
病室にいる間にも、保険会社のパリ駐在員からのFAXが病院に届き、見る間に書類が交わされていく。本人の帰国についても全ての段取りが明確に示され、現地での保険手続きが完了した。
Klinik Gut
 
 このクリニックは、サンモリッツに集まるスキーヤーの転倒事故の治療を一手に引き受け、短期間で退院させるということで有名な病院だという。
 
 右膝が痛々しい
 
 
 上の写真は、スイスの雑誌社がこの病院の取材に訪れた時にたまたま「日本人の医師が骨折治療中」の情報を得て面談され、雑誌に掲載されたものだ。本人は入院中、医師やスタッフとのドイツ語の会話を楽しんだようだ。
 この日の夕食はClassごとの会食となる。19:30に集合し、12名が窓際のテーブルに着く。インストラクターを囲んで赤ワインで乾杯したが、食事はいつものバイキングだ。隣に座った74歳のドイツ男性から「ナカムラさんの年齢が80歳?」と聞かれヤーと答えたが、見かけによらず年寄りだということだろうか。 
 
 118、カリキュラムの最終日は快晴に恵まれた。Class39:45にホテルを出発、ゴンドラでSignalへ登り、ここからインストラクターの先導で次々とコースを巡る。
 
 まずリフトL2639mに登りコース⑥で2486mのCorviglia、コース14Marguns 2278mへ下る。リフトRからコース17を滑ってGluna、リフトUからコース10でMarguns、リフトRからCorvigliaに戻る。最後にゴンドラDに乗って標高3075mのピークPiz Nairへ登り、大パノラマの眺望を楽しんだ。
 

 ここから2278mMarguns までコース16-17のスラロームが素晴らしかった。思う存分に習得したパラレルターンを楽しんだ。この後Corvigliaへ移動し、Club Medで最後の昼食、ホットワインが美味しかった。
 最後の滑降は標高2486mから麓のSt.Moritz Bad 1772mまでだ。何度も滑ったコース8-4-28を気持ちよく飛ばす。スキーを脱ぎ、全員でインストラクターを囲み、5日間の指導に感謝する。
 
 119、最終日は全員で一緒に滑ることになる。4コースを一緒に滑った後、別れて先にホテルへ戻る。ホテルで昼食を取り、帰国の準備をする。
 今回借りたのはロシニョールの新型カービングスキー、165㎝なのに非常に重く、担いで運ぶのに苦労したが、滑ってみると重量感はなく意のままに滑ってくれた。安定感があり、大きな転倒することなく6日間のスキーを終えることができた。
 
 インストラクターから「回転はよくできている。滑降中のストックの位置が前に出すぎているので、体に近づけること。次回はClass4へランクアップ」などの講評をもらった。
 
 何よりも短期間で滑降技術が身についたことが嬉しかった。と同時に、夢のよう
に上手く滑れたのはサンモリッツの雪のマジックではなろうか。果たして日本の湿雪で同じように滑ることができるだろうかという思いがあった。
 2月に白馬乗鞍高原スキー場で滑ってみた。ゲレンデの状態は、夜間に圧雪したコースに新雪が15㎝ほど積もっている。サンモリッツと比べると重い湿雪だ。ガスのため視界が悪く雪面がよく見えない。
 
 蕨平
 
 
この状況では視線を下げて雪面を見ようとするが、足元を見るとめがくらむので、10m先を見ながら滑る。基本動作1--3の回転を始める。スキーが雪に埋まりながらも左右に回転し、スラロームを楽しむことができた。
 本年傘寿を迎えるこの年になって、間違えなく滑降技術が向上し、上手にきれいに滑る意識が身についた。これはサンモリッツで5日間スキー指導をしてくれたインストラクターからの免許皆伝であり、これからも体力のある限り極上のスキーを続けたい。
 
 皆様もこの簡潔な基本動作1--3の回転をお試しください。