2011年4月29日金曜日

このごろ
 edel-ysの「ヤーさん」です。ニャンコさんのご指導で、やっと自分でブログに投稿できるようになりました。もう、相当にボケていますので、なかなか難しいです。今後とも、よろしくお願いいたします。

 24日、北山荘の集いに行きました。鎌田会長以下、十数人の参加でした。まだちょっと寒く、山桜のつぼみは固く、山シャクヤクもつぼみが一つついているだけでした。クリンソウも開花はまだ先です。4月7日に芦火谷の上流、二ノ谷に竿を出そうと車を走らせましたが、尾越を過ぎると、道路上に30センチばかりの雪があり、Uターンしました。
暖冬と言われようになる前は、そんなもんだったかもしれませんが、暖冬に慣れると、この季節の残雪の多さに驚きます。高校へ入った年の3月末は、二ノ谷は全面の雪でした。ことしは冬が寒く、春も遅いようです。14日に佐々里のハナノ木谷(703.8m)に登りましたが、尾根筋にまだ残雪がありました。

北山荘のメインディッシュは焼きそばでした。賄は前夜から泊まり込みの「棟梁グループ」、鶏ガラでスープをとった、本格的な味でした。多雪で、屋根が少しずった、と言う話でした。この冬は80センチくらいの積雪があったそうです。山野草大好き、という山ガールが独り現れ、いろいろ取材していました。

ことしは、北山荘70周年だそうです。事務局で、秋に記念のイベントを考えてもらっています。よいアイディアがあればご提案ください。来年の会報のテーマは「北山荘の70年」に決まりです。みなさまの北山荘への想いの投稿を期待しています。

太田副会長のお見舞いに行きました(22日)。極めて元気です。ただし、1年くらいの安静と養生が必要だそうです。来春は北山荘で会えるでしょう。1日も早いご快復を。

崑崙隊員だった堀江徹雄さん(鴨沂36卒)が4月13日に亡くなりました。崑崙隊員では河端繁さんに次いで2人目、ご冥福を祈ります。

雪が融けると、まぶしいような新緑の山。いろいろご計画があるでしょう。老体でも行けるような計画があれば、声をかけてください。

石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも (『万葉集』巻第八)
(2011年4月28日、四手井 靖彦)

2011年4月16日土曜日

上西勝也さんの「山城五十山」を紹介します

上西勝也さんといっても北山の会で彼を知っているのは森山英隆氏くらいでしょう.

彼は鴨沂第9期卒です.高校時代山には登ってなかったようですが,卒業後,同志社大学工学部・電気工学科に進み登山を始めました.また,同学科の友人たちと工学部のなかに「岳稜会」という登山サークルをつくりました.私が彼を知ったのは同志社大学在任中このサークルの顧問をしていたからです.

彼は実によく山に登り,登山記録をきちんと残し,山の歴史を調べています.もっともよく歩いているのは北山ですが,その足跡は日本中におよびます.彼の2つのホームページを読まれることをお勧めします.

1.山城五十山
2.史跡と標石で辿る日本の測量史
http://uenishi.on.coocan.jp/

(西邨顕達)

2011年4月13日水曜日

近江金糞岳-輝く尾根に春風そよぐ 鴨6 鎌田克則

この410日、好天が予測されたので、雪山に登りたく、早朝より強豪小林氏を誘い、名神、北陸道経由、近江高山の部落を抜けてキャンプ場へ。右手山沿いの林道進むこと約2km、山側よりの雪の押し出しでどうにも進めず、7時20分止む無く車をデポ。
 雪の多さに驚きつつ林道を歩む事1時間、大きくUターンし,橋を渡り、中津尾根に達す。そこより林道を離れ尾根道へ。初めは雪に押さえられた藪で難渋するが、海抜800m辺りより、雪はべったりで快調の進む。気温上昇により、少々沈むが大したこと無し。先行者が一人居たが、二度目の林道横断時に追い抜く。若そうだが荷物が大きい。
 間もなく小朝の頭、金糞岳眼前に圧す。すぐ向こうに取り付き地点がある様に見えるがそうは簡単ではない。
少々の登り下りの末、取り付き地点に達す。約標高差300m、『登山の運動生理学』によれば、私の年齢からすれば、一分間の心拍数が110位が適当らしいが、まず130位の心拍数MAXと考えてねちねち登る。頂上まであと20分の道標あり、あと少しと思いきやそれがなかなか達しない。罪な道標だ。やっと先行する小林氏の先に白いドームが見える。頂上の風格だ。やっと頂上。北に奥美濃の連山くっきり。まず前方に特徴ある蕎麦粒が見える。その延長線上の白い連山は、万年狙っている冠、能白辺りであろう。左には今シーズン狙ってる黒壁,三周だろうが何故か同定できぬ。先達て登った花房山からは殆ど明確に同定出来たのに。
 帰りは己のトレース其のまま快調に下る。登りになると、来るときこんなに下ったかなあと思いつつ恨めしく思う。追い抜いた若手と出会う。荷の大きさから、八草峠方向に縦走するのかと聞いたら,往復するだけと言う。ボッカ訓練でもやっているのだろう。
 3時半、車のデポ地点に到着、全く最高の雪山登山でした。

2011年4月6日水曜日

北山の会とJAC最古の会員番号

 わが国で最初に生まれた山岳会が日本山岳会である。1905(明治38)10月、英国山岳会に倣って小島烏水らによって創設された。戦前、戦後を通じて日本を代表する山岳会として活動し、マナスル初登頂など、多くの業績を残した。
 現在の会員数は5千人を超え、最も新しい会員番号は1483020113月現在)である。そして、最も古い会員番号が482番の「北山の会」である。この番号はもともと、京都一中山岳部の会員番号であった。戦後の学制改革で京都一中はなくなり、除籍処分になっていたのを、一中山岳部の後継団体である「北山の会」が復活させた。
 京都一中は1870(明治3)年の創設で、日本で最古の中学校とされている。1915(大正4)年に、山好きの金井千仭先生の引率で生徒ら13人が御嶽、槍ヶ岳に登った。これが山岳部の創設のきっかけとされている。当時は中学校の山岳部は珍しく、同校の百年史には「中学山岳部としては、東京青山師範付属中学山岳部の創立が明治44年であるから、おそらく、これに次ぐ全国2番目と思われる。因みに、一高が大正3年、慶応が大正4年という当時の登山界の状況である」と記されている。登山に関して、早熟な中学校であった。この御嶽、槍ヶ岳登山記は、同年の「山岳」第10年第2号に掲載されている。
 京都一中山岳部は創設と同時に日本山岳会に入会した。これが会員番号482番である。登山に参加した4年生の岸本卯之助は、このときすでに日本山岳会の会員であり、会員番号は380番であった。5年生だった後の極地探検研究家加納一郎も参加している。この登山には参加していないが、3年生には、今西錦司や西堀栄三郎がいた。後の世代に梅棹忠夫や川喜田二郎といった生徒がいる。京都一中はきらびやかな登山、探検家の“揺りかご学校”であった。

 京都一中がなくなったとき、山岳部員らは全員が旧府立第一女学校だった新制鴨沂高校に移った。低学年と高学年の2部制だったと聞く。洛北の地にあった一中の学舎は新制中学に譲り渡した。山岳部員はただちに新たな山岳部を興した。これが鴨沂高校山岳部である。
 2年後に、京都一中の学舎に洛北高校が新設された。鴨沂高校にいた低学年が洛北高校へ移り、新たに山岳部を創設した。一中山岳部は鴨沂高校を経て、洛北の地に戻ったのである。京都一中の校舎を継承した洛北高校山岳部が、京都一中山岳部の後継者と言ってよいだろう。だが、そのルーツを辿ると、一度は鴨沂高校を経由しなければならないのである。
 京都一中は二つに分かれて再生した。こうした経緯から、新制の両校はルーツを同じくする兄弟であり、言ってみれば、同じ山岳部であった。一中時代の装備や書物は共有していたという。山行は常に共同であり、プラン会には両校の山岳部員が参加した。さらに、新制の両校を強く結び付ける二つの要素があった。
 信州・蕨平のスキー合宿と北山荘の管理である。スキー合宿をやろうと、洛北高校の一期生、安藤久男らが梅棹忠夫さんに相談に行ったという。白馬山麓の蕨平がよかろう、ということになり、梅棹さん自身がスキーコーチを引き受けた。蕨平は京都の三高山岳部が開発したスキー場であり、梅棹さんらが三高時代にスキーを学んだ由緒あるスキー場であった。
 むろん、鴨沂、洛北両校合同であった。梅棹さんのほか、川喜田二郎さん、市原実さんといった先輩がコーチにあたる豪華メンバーであった。この合宿は1951年から1959年まで続いた。三高流のアールベルグ派スキー術をみっちりとたたき込まれた。
 蕨平合宿が解消されたのは、運営に当った一中から新制高校へ移った世代の先輩たちが社会に出たのと、大先輩たちも忙しくなって、高校生の面倒が見られないようになったからである。先輩主導で行う他校との合同行事を、学校当局や教育委員会が好まなかったのも一つの理由と聞いている。この路線上で、鴨沂高校の山岳部は廃部になる。登山を危険と見る教育委員会の方針である。洛北高校にも廃部の危機が迫ったが、梅棹さんが掛け合って、存続が決まったとも聞いている。
蕨平のスキー合宿は、山岳部員だけでなく、両高校の一般生徒の参加も歓迎した。一中山岳部は例会登山を公開し、常に一般生徒の参加を歓迎した。スキー合宿も一中山岳部の例会登山のひそみに倣った。多くの生徒が参加した。
 もう一つ、北山荘の存在が大きい。北山荘は京都一中の“現物遺産”である。ルーツは昭和初期に建設された初代の小舎に遡る。大阪のミズノで開催された山岳展に展示された山小屋を、「終わったら、いらんやろ」と西堀栄三郎さんがもらったのは有名な話である。解体して京都まで運び、鴨川の源流に移築した。山の歌として愛唱される「雪山讃歌」の中で、「煙い小舎でも、黄金の御殿…」と歌われているのはこの小舎のことである。オリジナルは「三高山岳部の歌」である。三高山岳部に管理させたので、「三高の小舎」と呼ばれた。運営を強化するため、19421月、一中に移管された。
 老朽化が激しく、同年9月、一中は100mばかり上流に新たな小舎を建てた。これが現在の北山荘である。鍵をかけず、一般に開放していたこともあって、新築なった小舎も、戦中、戦後の時代に荒廃した。鴨沂、洛北の山岳部員たちが手仕事で復旧に努めた。それが、両校の結束をさらに深めた。
 どんな組織にも、必ず、ずば抜けた才能の持ち主がいる。北山の会の場合、「棟梁グループ」と呼ばれるグループがそれである。彼らはほとんど玄人と言ってよい技術を駆使して、小舎の改修を行ってきた。2009年に3度目の大改修が行われ、現在は新築同様の装いである。
 
 1991年に京都一中と鴨沂、洛北両高校山岳部のOB会、「北山の会」が発足した。一中OBの四手井綱英さんらの呼びかけだったという。こうして、3校の山岳部はOB会としてまた、一つになった。会員は減少気味だが、年一度、会報を発行し、北山荘に集い、会員たちによる蕨平でのスキー合宿も続いている。
1997年に安江安宣、大橋秀一郎、梅棹忠夫、川喜田二郎の4先輩を紹介者として日本山岳会の復活会員になった。これが、北山の会が482番の会員番号を持つ所以である。紹介者たちはすべて彼岸の人となったが、その伝統は生きている。   201141日、四手井 靖彦)

この投稿は、四手井氏の依頼でニャンコが投稿しました。