越中ふんどしで沢歩きを貫徹した男
美濃・川浦谷西ヶ洞を初遡行した仲間
鴨沂8期 四手井 靖彦
鴨沂高校で1年後輩の中島東夫の訃報を聞いた。山とは縁遠い水族館の仕事をしていた男である。山岳部で2年間共にしたことになるが、蕨平のスキー合宿で一緒だったほか、山へ行った記憶はあまりない。思い出すのは、美濃(岐阜県)の川浦(かおれ)谷の支流、西ヶ洞(にしがぼら)の遡行である。川浦谷は長良川にそそぐ板取川の支流である。
板取川の本流川浦谷の遡行は京都一中山岳部の先輩たちもやっているし、洛北高校山岳部の私らの同年代も本流を遡り、沢の股から「左門岳」に登っている。そこで、本流を避け支流の西ヶ洞を目指すことになったのだ。パーティーは浪人中の私と3年生の中島、1年生の平沢治の3人だった。1956年8月、夏の盛りであった。
板取村から川浦谷に入り、すぐ右岸の西ヶ洞に入る。入り口は廊下状だが、その奥は白い石のまぶしい、明るく広い谷である。当時は釣りはやらなかったが、
越中ふんどし姿で歩く中島東夫。左は3年後に銚子の滝で滑落死した平沢治
魚影は濃かった。魚を突くヤスは1本用意していたが、水中眼鏡を忘れたので役に立たなかった。
沢を離れればむろん、藪漕ぎである。当時の私らの山装束は着古したオヤジの背広などである。夏は上着はいらない。ズボンだけあればよい。いまならスポーツ店で新調するのだろうが、私らのころは街で散々履いて、もう捨てる、というズボンを山へ穿いて行ったのである。
藪をこげば古びたズボンは破れる。中島のが一番破れやすかった。ずたずたに破れてしまうと、帰りの汽車に乗れない。ズボンをザックの底にしまい、越中ふんどし一つで歩き始めたのである。
西ヶ洞の上流には「ドウの天井」(1,333m)という三角点がある。当時はこの名前も知らなかった。頂上近くに広いブナ林があった。「ブナの木平」と勝手に命名した。そこで野営した。
当時「軽量主義」を流行らせていたので、所持品は極力減らした。野営用具と言っても、グランドシーツⅠ枚だけである。雨が降れば、これを屋根にするのである。地下足袋の上にわらじをつけて、沢沿いに歩く。次々に現れる滝はへつるか高巻きで越えた。
「函洞」(はこぼら)という短い沢を下り、銚子の滝の手前で川浦谷本流に降りた。滝を見た後、「内喞洞」(うちばみぼら)まで下り、そこを遡って「平家岳」(1141.5m)をめざした。
けがの心配もあるので、ふんどし姿の沢歩きはお勧めできないが、沢歩きならまだよい。ずたずたに破れたズボンでは列車には乗れない。むろん、ふんどし姿も。背に腹は代えられないのだ。だが、藪漕ぎは大変である。
「内喞洞」を詰めて尾根に出た。最後の沢の別れを間違えて、かなり東に出てしまった。三角点に向かって縦走である。いまは知らぬが、当時は美濃の山には道などなかった。
一中山岳部の用語で、「モモンガーのジャンジャン」という言葉を聞いたことがある。濃いブッシュで、足が地面につかない状態を言う。「ジャンジャン」は藪漕ぎのことである。つまり、木の上、大げさに言えば空中を歩くのである。
平家岳に至る尾根筋はまさに「モモンガー」であった。中島はそれをものともせず、ふんどし姿で押し通したのだ。北の沢へ下り、道路へ出て中島は大事にしまっていたズボンを出して穿いた。3泊4日のふんどし山行であった。多少の破れはあったが、咎められることなく「美濃白鳥」から列車に乗って京都へ帰った。中島は弱音を吐かない男だった。
後になって知ったが、岐阜県山岳連盟が出している「岐阜百山」(岐阜日日新聞社=1975年7月1日刊)の「ドウの天井」の注釈に、「西ケ洞の初遡行は四手井靖彦氏(朝日新聞社)である」と書いてある。当時はそんなことは知らなかったし、我々の仲間内で未踏の沢だったから選んだだけだった。
美濃登山の先駆者は、旧制岐阜高農山岳部ではなかったかと考えている。だが、いわゆる北アルプスは長野県と富山、岐阜県にまたがっている。上高地を表玄関とするなら、新穂高温泉は裏口になろう。だから、岐阜の登山家にとってもアルプスは当然、自分たちのテリトリーなのだ。
いくら未踏の美濃の山があると言っても、岐阜の登山家の目は主として標高の高いアルプスに向いていたのではないだろうか。美濃の山はむしろ京都の登山家たちが目をつけ、啓発に手をつけたと推定される。京都の一中山岳部系列の登山家は、昭和の初期から美濃に入っている。それに触発されて、大垣山岳協会などが美濃の山への実践と紹介の道筋をつけたのだ。
今西錦司が岐阜大学長を引き受けたのは、「美濃があるからや」と本人から聞いたことがある。半分は本心であろう。学長室には地元の山岳関係者が出入りし、今西が「岐阜には美濃という山があるのに、キミらは何でもっと登らんのや」とけしかけたという。
京都では普通「美濃」というが、岐阜では山のことは必ず「奥美濃」という。自分たちが住んでいるところが「美濃地域」だから、山と区別するために「奥」をつける必要があったのではないか。ここに美濃の山の開発者が京都の登山者であったという推察が成り立つ。「奥美濃」とは、比較的新しい呼称である。
話が飛んだ。西ヶ洞のパーティーだった平沢が1959年8月に同じ川浦谷の銚子の滝で滑落死した。大学へ入った夏である。鴨沂の山岳部の仲間だった連中を引率していた。
平沢はバランス感覚に優れた男であった。遭難の詳細は知らないが、バランス感覚に対する過信があったのではないか。日本山岳会京都支部の「支部だより」16号(1989年8月10日)に「川浦谷の遭難から30年」という副題をつけて、私は「平沢治君のこと」という一文を寄せた。
そしていま、中島東夫の死である。順番からすれば、私が一番先に死ぬべきなのに、どうして順序が逆になるのか。「ふんどし男」も西ヶ洞の仲間であったことを明らかにして、初遡行の栄誉を分かち合いたいと、再び筆を執った。
社会人になってから西ヶ洞を再訪したことがある。先輩の今西武奈太郎、鴨沂同年の大浦範行の3人だった。このときは釣りが主たる目的で、南の日永岳(1215.7m)を越えて入った。西ヶ洞にダムができるという話で、すでに沢は荒れていた。魚は釣れなかった。私の西ヶ洞は、中島、平沢とともに、青春の記憶の中にしか存在しない。
(2014年2月15日、敬称略)
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