2012年2月7日火曜日

文章マナーについての私見 四手井靖彦

作文の好きな人、嫌いな人、また、上手な人、下手な人があるかもしれない。登山家には文章をよくする人が多い。登山の報告を書いたり、エッセイをモノにする機会が多いから、と考えられる。天賦の才能もある程度の影響があるだろうが、努力すれば誰でもそれなりの文章が書ける。ただし、基本的な作法、マナーというものがある。
他人の文章をよく読むのが文章上達の一つの方法である。一般に、最も親しむ機会が多い文章は新聞記事である。新聞は国語審議会の答申を準用しているので、表記、表現法としては原則的に手本になる。むろん、新聞記事がすべてよい文章とは限らない。文体からしてなっておらん記事、意味不明の記事もある。新聞が多用する体言止めなども感心しない。
この記事はうまいとか、あるいはへたくそだとか、点数をつけて読むとよい。最近の流行りは短文形式である。新聞は内容ともに、批判的に読むものである。
さて、文書マナーを身につけて何を書くか。テーマを絞るのも一つの手である。何でもかんでも、総花的に書くと、テーマがぼける。目に触れたもの、現象面ばかり追うと小学生の遠足日記になる。心象風景を描く、何を感じたか、何を思ったかを書くと文章にふくらみが出る。登山記ではないが、海洋ものの「太平洋ひとりぼっち」(堀江健一)と、「リブ号の冒険」(小林則子)の違いがそれである。前者が航海日誌的な味気なさに支配されているのに比べ、後者は心象風景にあふれて読み応えがある。
長年文章を書いたり、他人の文章に朱を入れたりするのを生業としてきた立場から、基本的な文章マナー、用字用語について、以下に私見を交え若干のアドバイスをする。なお、「朱を入れる」は、毛筆時代に他人の文章を直すとき、朱を用いたことに由来する。
一応の約束事はあっても、文章はあくまで個性である。思想であり、人格である。最低の約束事だけに留意して、のびのびと書いてみよう。紀行文よし、エッセイ、創作もよし。会報にどんどん投稿してみよう。                   

句読点 高校野球の試合結果で「○○校にがい歌」という見出しがあった。「がい歌」は「凱歌」としたいところだが、「凱」が当用漢字にないので「がい歌」としたところはやむを得ない。だが、「○○校に」と「がい歌」の間に読点、あるいは「アキ」(余白)を入れなかったために「苦い歌」になってしまった。読点があるかないかで、意味がまったく違ってくる例である。
こういうのを、「弁慶がなー」と言う。読点の位置を間違えると、「弁慶が、長いなぎなたを…」が、「弁慶がなー、ぎなたを…」になるという戒めである。
朝日新聞の「用語の手引き」には、こんな例が出ている。「Aさんと同乗のBさんが死亡した」。AさんとBさんの2人が死んだのか、あるいはAさんの車に同乗していたBさんだけが死んだのか、筆者には自明であっても、読者にはわからない。「Aさんと、同乗のBさん」とすれば、2人とも死んだことになり、「Aさんと同乗のBさんが、」とすれば、Bさんだけ死んだことになる。事実関係がまったく違ってくる。
「用語の手引き」からもう1例。「私は昨日アメリカから帰った友人に会った」。「昨日」が私にかかるのか、友人にかかるかで意味が変わる。「昨日に帰ってきた友人」なのか、「昨日に私が会った友人」なのか。これも、筆者には自明で、読者にはわからない例である。

漢字の名詞と名詞がつながる場合、例えば、「連日登山三昧であった」と書くと、意味の取り違いはないが、表記上、「連日登山」という4字熟語になって恰好が悪い。「連日、登山三昧であった」とすと、体裁がよいし意味もよくわかる。
ひらがなの場合も、名詞と名詞がつながる場合、読点を入れた方がよい。例えば「あす、あさって」など。読み違いはなくても、やはり体裁が悪い。「ただし」や「しかし」、「でも」、「だが」などの接続詞の後は必ず読点を入れる。
読点をおろそかにしてはいけない。一般に、どこに挿入するかは基本的に筆者の気の向くままであるが、入れ過ぎということはない。むしろ、句読点が多いほど読みやすいし、文章の意味がわかりやすい。
句点には誤法というものがほとんどない。文末につける以外に使い方がないからである。ただ、会話体などでカギ括弧(「」)内の最後に、句点をダブらさない方がよい。「君を愛しているよ。」などである(句点の。とカギ括弧」がダブる)。有名作家などもやっている。禁じ手というわけではないが、不細工である。最近読んで、いま手元にある広瀬隆の「原子炉時限爆弾」の冒頭のページに「勿論私は…」という表現がある。「勿論」と「私は…」の間に読点があった方が読みやすい。

数字の表記 数字には和数字と洋数字(アラビア文字)がある。昔、時計の文字盤などに使われたローマ数字もあるが、これは普通の文章で使うことはあまりない。和数字と洋数字の用い方には原則というものがないようである。
しかし、どっちでもいいから適当に、というものでもない。縦書きと横書きでも事情が違う。数字を表すのに、横書きの場合は洋数字が便利である。一般の数字表記はすべてこれでよい。だが、以下のような場合は少し考えた方がよい。例えば「第二次世界大戦」という場合、「第2次世界大戦」とも書ける。「二世」、「三世」という言葉がある。「2世」、「3世」でもよさそうである。間違いではない。だが、「第二次世界大戦」とか「二世」、「三世」という言葉は、それ自身が一つの独立した日本語の名詞なのである。
「第100次世界大戦」という言葉はない。ローマ法王など十何世というケースもあるが、「100世」はないだろう。そこから導き出される結論は、どんな数字にでも置き換えられる場合に限って洋数字が使える、ということになる。「三度目の正直」は、一つの熟語であって、「四度目の正直」はない。だから、「3度目の正直」としてはいけないのである。
「パーティー3人が…」という場合、3人でも6人でも10人でもあり得る。だから「3人」でよい。あえて「三人」と表記することはない。縦書きの場合は別である。

漢字 漢字は当用漢字が原則だが、どれを使う、使わないかは偏に筆者の好みの問題である。梅棹忠夫さんはひらがな表記が好きだった。私なら漢字を使うところを、ひらがなで書いている。一般に、日本語文章はほどよい漢字、ひらがな交じりが美しく、読みやすいと思う。基準は当用漢字である。最小限、当用漢字は使った方がよい。そのうえで、それ以外でも、好きな漢字は使えばよい。当用漢字であっても、嫌いな漢字、使いたくない漢字もある。それが、その人の文章の個性に反映する。漢字にはそれぞれ味がある。

「いろいろな」という表現がある。関西風には「いろんな」と言う。「さまざまな」と同意語である。これを「色色」や「色々」と書く人がいる。印刷されたものでも目にする。やめてほしい。不細工である。恰好悪い。広辞苑には「色色」は「さまざまな色」と書いてある。色はカラーのことなのだ。角川の漢和辞典には「色色」の読みとしては「しょくしょく」しか書いてない。さまざまなという意味で「色色」や「色々」と書くのは間違いではないか。

人数表記 「○名」と表記する人が多い。間違いではないが、「○人」とするべきである。「○名」は役所言葉である。警察や消防の用語である。役所の文章も恐らく同じであろう。それと、旅館などで商売上に使われる。「○名様、ご到着」などと言う。
普通の話し言葉で、「○名で登った」とは言わない。「○人で登った」というのが現代用語の常識だろう。新聞用語にも「○名」はない。明治時代に言文一致運動が始まって、文語体が追放された。二葉亭四迷らが先覚者だったという。私らの世代はもう、文語体は読めない。森鴎外の「舞姫」には辟易した。
「○名」と「○人」の表記は直接、言文一致運動とは関係ないが、現代口語文の中で言と文が一致していない一つの例である。文章を書くときに、何か力んだり、緊張したりして、つい、「○名」になってしまうのかもしれないが、この用語には抵抗を感ずる。できれば「○人」に統一してほしい。

 「…から」と「…より」 「…から」とするべきところを、「…より」を使用する人が多い。「用語の手引き」にこんな例が出ている。「紫式部は子どものころより利発だった」。この文は紫式部の「現在と子どものころ」を比較しているようにも受け取れる」。子どものころより、いまの方が利発である、という意味に受け取られる恐れがあるのだ。本来の意味は、「いまも利発だが、子どもの時分から利発だった」のである。「子どもころから」とするべきなのだ。だから、朝日は場所・時間の起点を示す場合の助詞は「から」を使い、「より」は使用しない、と取り決めている。
「…より」は、何か力んだような感じがする。朝日の取り決めを押し売りする気はないが、言文一致の趣旨からも「…から」の方が自然である。話し言葉で「…より」を使う人はいないだろう。作文を意識して力む必要はない。

時制 最も気になるのは、時制を無視した文章である。「詩歌は静かなるところにて思ひ起こしたる感動なり」と藤村は書いている。登山の紀行、報告は下山して時間が経ってから、静かに思い起こして書く。
ところが、書いていると過去の世界に戻ってしまい。「きょうの行程は…」などと書く。「あすは…」も出てくる。時制を全く無視している。過去の時制に「きょう」はない。「この日は」とか「当日は」とするべきである。「あすは」は「翌日は」としなければならない。ただ、文中の会話体ならよい。「『きょうは、ええ天気やな』 と、○○が言った」といった場合は「きょう」でよい。過去の時点として時制に矛盾はない。

年代表記 元号を用いる人が多いが、やめてほしい。元号は天皇制と関係がある。役所とNHKが頑なに元号にこだわるのはそのためである。NHKは国に首根っこを押さえられているから、元号を止められない。役所も政府と政権政党には逆らえない。だが、天皇制と無関係であっても、二重表記はややこしい。京都市は近年、西暦表記も採用するようになった。コンピューターの関係で、西暦の方が都合がよいらしい。当然である。
役所とは全く関係のない山岳会が、なぜ、元号にこだわるのか理解ができない。私など、元号で言われると、いつのことかわからない。はっきり言って、元号など国際的にはまったく通用しない前世紀の遺物である。ボーダーレス、グローバル時代と言われる昨今、前世紀の遺物とは決別しようではないか。若者は未来に生きよう!
過去の時限で、元号の方がわかりやすい場合がないとは言えない。そのときは、カッコ内で元号を併記するとよい。例えば、2011(平成23)年、などである。賢明な諸氏は早くからこの方式を採用している。
「年度」もほとんど意味のない役所用語である。予算が年度別になっていることから、役所では各種行事を年度別に分ける。1~3月は新年とダブって混乱する。役所以外では、年度表記もやめた方がよい。意味がないし、わかりにくい。グレゴリオ暦に従った通年表記でよいのではないか。

ダブリ表現 入水(じゅすい)という言葉がある。水に入って死ぬことである。入水そのものに自死の意味があるのに、「入水自殺」といったダブリ用語が新聞にもよく登場する。こんなのを「馬から落ちて、落馬して」と言う。「女の婦人に笑われて、切腹しよか、腹切ろか」と続く。誠に恰好が悪い。
「日本語『間違い』辞典」(ワニ文庫)には、こんな例が出ている。「高校野球は炎天下の下で行われる」。「下」は「もと」なのである。もう一つ、「約1時間ほど」。「約」と「ほど」は同意語である。ダブリの例として比喩的に持ち出されるのは「大豆豆」や「回虫虫」などがある。筆者は「今現在」という、よく耳にする表現にも抵抗を感じている。「現在」とは「今」のことなのだ。
NHKが好んで使う「非常に激しい雨」もダブリ表現の典型である。「激しい」は最上級の表現である。それに「非常に」をつける必要はない。「非常に強い」なら、抵抗がない。NHKの言語感覚は、疑問を感ずるものが多い。
ダブリ表現ではないが、よく見かける表記上の間違いは「享年○歳」である。「歳」が不要である。「享年」は天から授かって生きた年数のことで、没した年齢のことではない。生きた年数と死んだ年齢は数字としては同じだが、言葉の意味が違う。従って、○の部分は数字だけでよい。例えば、90歳で死んだとしたら、「享年90」とする。
最近、よく耳にする話し言葉で気になるのは、「…しにくい」と「…し辛い」の混同である。両者は意味が違うから、どちらを用いてもよいというものではない。「…しにくい」は物理的困難さを意味し、「…し辛い」は精神的、内面的要素があるように思う。テレビに出てくるアホ文化人たちは、「…しにくい」と言うべきところをほとんど「…し辛い」と言っている。
最近はあまり見かけなくなったが、一時、「酷く感動した」とか「酷く美しい」などと言う表現が流行った。逆の意味に使うことで新鮮味を出したつもりだろうが、「酷い」は「むごい」などと同じ意味で、肯定的な意味で用いるべきではない。

「つなげる」 いま、話し言葉でも書き言葉でも、最も気になって腹立たしい表現は「つなげる」である。私らの若いころはこんな表現はなかった。ごく最近流行り出して、テレビも新聞もオール「つなげる」が席捲するようになった。かつては「つなぐ」、「つなぎ」であった。どういう理由で「つなげる」なんて変な言葉がのさばりだしたのか。文法上のことはわからないが、「曲がり角の日本語」(岩波新書)には以下のように書くにとどまっている。
現在すでに「つながる」に対しての他動詞は何かというと、「つなぐ」だと言う人がほとんどいなくなりました。「つなげる」だと言います。本来は「つなぐ」でした。…本来の「つなぐ」に対して「つなげる」という形がどうしてでてきたのでしょうか。

面白く、楽しく さて、基本的マナーを身につけて何か文章を書いてみよう。山登りの報告、想い出、エッセイでもよい。テーマによっては必ずしも当てはまらないが、文章は読んで楽しく、「ああ、おもろかった」と思ってもらえるのが一番よいと思う。どこかに意見、主張があってもよい。先に述べたように、文章は個性であり、思想であり、人格である。
新聞社には「デスク」という職制があり、原稿に朱を入れる。社のコードに照らすというのが本来の役割だが、読みやすい、わかりやすい文章に直す。むろん、誤字、誤用も正す。新聞でなくても、公表する文章は必ず筆者以外の目を通すべきである。筆者の思い違いなどもある。会報などは編集者にそれを委ねていると考えてよいだろう。
何度も推敲する。文章は読むたびに直したくなる。何度も手直しするとよい。これでよし、と言う段階で出稿する。そして、編集者の目を通して朱の入った原稿を一度、筆者に返してもらう。納得して改めてゴーサインを出す、という手順を踏むのが好ましい。そのためには時間が必要である。ものを書く場合、もう一つ大事なのは、締め切りを厳守することである。

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