2011年9月24日土曜日

京一中洛北高校同窓会誌「あかね」第49号から

平成23年8月31日発行の記事より転載
「京一中ゆかりのピッケル洛北高校に寄贈」
北山の会(京一中・鴨期沂高校・洛北高校山岳部OBの会)では長年にわたり持ちつづけていた秘蔵のピッケル(仙台・山内製)を母校に寄贈することになり此度同窓会関係者立会いのもと、中村淳・北山の会世話人から洛北高校細井事務長に手渡された。今回寄贈のピッケルは、山岳人には世界的に名の知れた仙台の山内製でシャフトの鋼の部分に「仙台 山内 昭八 百五」の刻印があり、昭和8年の山内東一郎の作で製作ナンバー一〇五番と理解される。山岳会に詳しいOBによると、昭和八年製造105番というのは山内でもかなり完成度の高い製品でそれだけに登山会における「骨董」としての価値は高い、とコメントしている。昭和8年製造を購入したのは、同年以降卒業者の世代ということになる。山岳部の当時の部員一覧によると、昭和8年卒に瀧山和、9年に伊吹良太郎、10年大橋秀太郎、12年梅棹忠夫、川喜田二郎のOBの名が見られるが、この貴重なピッケルは、それ以来一中山岳部から北山の会の財産として引き継がれ此程母校に寄贈の段取りとなったもの。

崑崙未踏の頂上にたったピッケルと旗も
今回同時に寄贈されたのは京一中山岳部85周年を迎えた2000年に実現した北山の会による崑崙未踏峰への登頂計画で実際に成功して隊員により頂上に揚げたピッケルと旗。歴史的な関連部品が併せ母校に里帰りとなった。(「未踏峰への挑戦 崑崙の夢を叶える」はあかね40号所載)
の記事が写真2枚とともに掲載されている。
このピッケルは私も現役時代に使い思い出の多いもん0です。
洛北 8期 太田 亙

2011年9月22日木曜日

その後の「皆子山」



 「みなこ」か「みなご」かの問いに対して、太田亙さんから「みなご」支持の投稿があった。ブログでの反応はこの1本だけである。ブログがまだ本格的に機能していない証拠であろう。一方、私が口頭で尋ねた会員たちの反応は、オール「みなご」であった。
 この結果からは、やはり、「皆子山」は「みなご山」であると結論付けざるを得ない。今後も、正しい山名の流布と継承に務めたい。今後、もし、バスや電車の中で「みなこ山」などお抜かしになる輩がいたら、「こら、こら、ええ加減なこと言うな、それは『みなご』と言うんじゃ」と叱ることにしよう。


 (四手井 靖彦)

2011年9月21日水曜日

私は、「みなご」と教えられました。誰に教えてもらったのかは忘れましたが、みんな「みなご」山とよんでいたと思います。
洛北高校山岳部に入部して先輩に最初に連れて行ってもらった山ですから思い出も多く、その時から「みなご」山と覚えてます。
今西大先輩がご令嬢に「みなこ(皆子)」と名前を付けられたと知ったのは後のことでした。京都北山の最高峰だからその山の名前をとって「みなこ」とつけられたと聞いた時、今西大先輩の北山に対する大きな想いを持っておられるのだと感じたことを覚えています。
山の名前は、古くは陸地測量部が適当に書いた当て字が一般的な呼び名になったり、地元では違う呼び方の山が、ガイドブックで変えられたりしていることが全国的にも多くあるようです。
エベレストもチョモランマとかサガルマータなどの呼び名がある(これは国によって呼び方が違うのだが)が我々はそんなに気に留めていない。
でも、「みなご」山の呼称には拘りたい一人である。
洛北8期卒 太田 亙

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