2012年1月31日火曜日

志賀高原報告、その他諸々 鎌田 克則

1)志賀高原報告 1月27日~2月1日川井、上嶋、倉橋、四手井、鎌田以上5名参加(四手井、鎌田は1/30帰り)
今年はなかなかの豪雪,それに低温、なにしろ27日、28日は-14度~-17度、それに風が吹けば、寒くて手足がちぎれそう。鉢山ほか少々ツアーの予定が、豪雪、低温で、ものの50mも進めず、転倒してもなかなか起きあがれず、スキーも雪中より見付けるのも大変と言った状態、半日で引き上げる。
30日も午前中は曇りで低温、厳しかったが、午後から好天、あのジャイアント他、かねがね恐れている急坂を、新雪蹴飛ばして豪快に滑った。その日はなんとチュートンさんの81歳の誕生日、それで来春はウエンゲン(スイス グリンデルワルトのユングフラウ寄りの素晴らしいスキーリゾート地)に行くと宣言された。概ね2013・2・2(土)発~10or11日帰り、カタール航空利用、三食、飲み物、リフト券、インストラクターall込み、26万円程度か。鬼が笑いますが、今年行こうかと考えていたので、概ねその計画流用、鎌田がお世話させていただきます。ユーローの安い時期に、ヨーロッパスキーが存分に楽しめますよ。
2)蕨平参加者 上嶋、高鍬、鎌田、三人は2/17午後京都、車で出発、(もう1名乗車可)、17日19日信濃荘泊、18日は雨飾り行きに付き、テントまたは山田旅館泊、万一それが天候如何によって1日伸びる可能性あり。
予定通りなれば、19日信濃荘に泊まり、20日(月)午後車で帰京予定。
荻野さんも同じく17日、東京より高速バスで来られ、前三人と同じ行動、但し帰りは、蕨平に22日ごろまで滞在される予定。
四手井さんは、雨飾り同行に付いて人数等の関係で不参加とのことです。
尚、雨飾、テント組み3人、山田旅館泊まり私一人、誰かご一緒しませんか。特に磯垣さん。黒田さん、あのテレマークで一丁どうですか。
以上と理解し、チュートンさんに伝えてあります。誤っておれば、至急訂正ください。
その他蕨平に参加される方は、2月2日以降に早急に、チュートンさんに滞在日とアクセス手段を直接連絡してください。
3)3月3日の由良ケ岳とカニの話、 北海道まで聞こえて安藤さんまで来られる由、私は個人申告最盛期なれど、何とかせねばなるまいと考えています。どうなるか解りませんが、どちらか、両方か、見通し立ち次第連絡させていただきます。
私としては、そこで北海道計画、5月GW前か後か、どんな日程か、参加者がどのくらいか、の凡そを決めたいと思います。原則は中村さんと安藤さんのご意見に従うつもりですので、出来ればそれまでに、お二人で話し合って大筋を決めて頂ければ、非常に有り難いです。そして大筋が決まり、それを先に知らせて貰えば、詳細を詰めて、計画案として、当日持参も考えています。もしGW前の4月ともなれば,日も少なく、航空券も日があれば、安く買えます。(船もありますが)
 所で、何とカニと聞こえただけでこれ程反響があるとは!!私はブログに投稿は無いし、ほんとに見てもうてんのか半信半疑でしたが、メーリングリストとやら、大変な伝達力ですねえ。安心しました。これからはメーリングリストに載せれば、少なくとも北山の会の主力メンバーには伝わったものと理解します。
4)会報の件、四手井さんが3月一杯で会報作成に専心しておられます。
特に今年は小屋特集ですので、長くとも、短くとも小屋にまつわる思い出等出稿おねがいします。なるべくMAILで送ってあげると助かるそうです。
宜しくお願いします。


2012年1月19日木曜日

BSプレミアム グレートサミッツ モンゴル最高峰, フィテン峰(4373m)のTVをご覧下さい。

鎌田 克則です。

昨秋、シルクロード、特にタクラマカン砂漠を半周した後、砂漠を縦断しました。なかなか異郷の旅心を満たしてくれましたが、そこで新疆ウイグル地区の案内の本(中国版・日本語訳)を手に入れました。その中の写真が見事で、特にウルムチの北、アルタイ山脈・カナス自然保護区辺りに魅かれました。何と言っても大草原の向こうに白い峰々が美しく、それに神秘の湖といわれるカナス湖の紅葉の美しさ、今秋はここに行くべし、と考えるに到りました。
 所でその辺りを調べている内に、どうしても気になる山があるのです。アルタイ山脈の最高峰(ロシア、モンゴル、中国と三国国境の山)で、中国名は友誼峰(名前が良い)、またはクイトウン峰、(4356m or4374m)それが余程眺めが良いらしく、あちこち写真に出てくるのです。それ程尖った様子もなく、高さも我々の梃子に合わない程でもない。一発登れないかと調べ始めましたが、何と全く登頂記録が無い。わくわくしてヒマラヤ観光を通して中国側に調べてもらったら、なんだか1940年代にロシア登山隊員30名が行方不明になったとか、日本ヒマラヤ協会が2000年前後に失敗した。その後中国隊が登頂したが、しかし記録がないとか,訳の解らない山なのです。
それでほぼ諦めていたら、何とNHK,BSプレミアムで放映される、グレートサミッツの「モンゴル最高峰フィテン(4373m)」が、その位置、高さから私の目指す?山らしいのです。
それが何とこの1月21日(土)19:00~20:29,23日(月)16:00~17:29で放映されることが、たまたまNHKを見ていて解ったのです。
運命的だと思いませんか。もう黙っておれない。と言うことでお知らせします。
先ずは見てください。そして是非登りたい?せめて眺めたいという人は、9月中旬の紅葉の盛りに、私は行きますので、声を掛けてください。多分中国側からアプローチの予定ですが、TVの内容によっては、モンゴルからも検討します。先ずはご覧を!!              
追伸 尚、6月初め、アンコール遺跡、ベトナム縦断も考えております。ご一考を。
 

2012年1月16日月曜日

今シーズン雪山・スキー報告第一報 鎌田克則

1)     12/21~23  蔵王スキー 毎年この頃蔵王で初滑りを行う事にして居る。
 もうゲレンデスキーには余り興味はないが、やはりシーズン初めは雪も少ないし、且つ山スキーに備えて、やはり板と雪に馴れておく必要がある。
この頃、雪があって、アクセスが楽で、廉価で行けるところとなると、日本中捜して先ず蔵王が一番である。簡単な話が、朝伊丹から飛んで仙台、直結バスで11時半には宿に到着、簡単に食事を取って、12時半には宿前より滑り出し、ゴンドラ一基で、蔵王の上部に達する。ゲレンデはガラガラ、広いし思い切り一日分滑れる。今年なんかあのモンスターもほぼ出来上がっていた。
帰りも3時ごろ宿を出て,同ルートで、9時ごろ家に帰れる。今回は2泊3日だったが、3日間で充分堪能できた。しかも交通、宿一切入れて4万円程である。この頃滑れるのは、志賀高原あたりだが、時間、コストを考えると断然有利です。何年も続けているので、一寸したノウハウがあるので、関心があれば、私に問い合わせてください。


2)1月3日 湖北余呉 栃の木峠付近、山スキー  このブログに、正月にたるんだ体を雪に晒しませんかと呼びかけました。ところが3人よりスノウシュウもあるし是非行きたいが、色々事情で行けぬとの連絡を頂きましたが、肝心行くと言う人は一人もありません。止む無く娘婿、娘、家内に湖北の雪を見せてやるとたらかして、車で木の本より、北国街道の突き当たり、余呉高原スキー場入り口付近まで送ってもらう。後は湖北を観光して2時半に迎えに来る様に。
先ず携帯TELテスト(以外によく通じた)、スキーにシール、ビーコン,GPS、無線等フルセット、直ぐ東のベルグ余呉スキー場(何年も休業中)の車道を登りだす。道幅は広く適度の斜度の車道が栃の木峠稜線より少し東南より南下する高原状(スキー場)の尾根まで通じている。快適なシール登行1時間強、元スキー場部分に達する。雪は1.5mぐらいあろうか。立派なリフト設備や建物が淋しく建って居る。正しく兵どもの夢のあと。これに投資した人には気の毒な話だ。
建物の陰で熱い紅茶に粗末なパン、久しぶりの雪山だけに美味しい。
さて高原状の尾根を北上し、緩やかなピークを越える頃から藪が出だす。スキー場を抜けたのであろう。途中から電話線の電柱が併行する。緩い下りもシールが滑り、少々の凹凸も気にせず進む事小一時間、先に見える高圧線の位置から、栃の木峠より音波山に向かう稜線に達した。念のためGPSでも確認。早速娘婿に電話、予定通りの迎えを頼み、元のシュプールを一目散に戻る。
スキー場から下る地点でシールを外す。昨夜念入りに掛けたWAXが威力発揮。あれよあれよと言う間に、広幅の車道をジグザグに殆どノンストップ、俺こんなに上手かったかなあと思う程、要は雪が適度に固まって、圧雪状態と変わらないのだ。予定より15分早く下車場所に到着。
考えれば、長いリフト一本分ぐらいの登り下りなのに、何故か大満足。ここが山スキーの止められないところです。
帰りは海津大崎を廻り、白髭神社にお参り、夕食は少々高くついたが、なかなかバラエティーに富んだ一日でした。 
3)新穂、菅平,鹿沢高原、スキー行脚  昔から鹿沢高原の国民休暇村に泊まって、あの辺りを滑ってみたかった。
昨年末、友人で温泉好きの軟弱スキーヤー等より、宿が取れたと連絡あり、少なくとも四阿山の隣の根子岳、湯の丸山に登らしてもらう条件で参加。一日目は新穂の温泉。翌朝一寸西穂にもよろめいたが、天気悪く平湯トンネル抜けて、高速で長野経由菅平に向かう。ダボスがどんな所か知らないが、それとよく似ているとか、要はだだつ広い、あちこちスキー場のある所だ。
私は根子岳(2207m)偵察に出掛ける。友人たちは、近所の温泉でゆっくりすると言う。あちこちリフトが多くて、根子岳に近いリフトを捜し乗ってみる。地図で予想していたが、想像以上に緩斜面である。
リフトの最終地点からも緩斜面が続く。要は高い方向に進めば勝手に頂上に着く感だ。頂上もそれ程遠くないと見当つけて、戻る事にする。下りは殆ど直滑降に近い。友人と合流、鹿沢の国民休暇村に向かう。鳥居峠付近で、夕焼けに染まる北アルプスを見る。
翌朝再度ダボススキー場へ。友人たちは、ゲレンデで、私は1時ごろには戻ると云って根子岳に、昨日のルートの先を行く。所々雪が少なくて笹が出ている。しかし大勢登ったシュプールを伝うのだから支障なし。あのゲレンデでは斜度不足で友人たちから不満の出るのは見えている。飲まず食わずで必死に登る.登り2時間と踏んだが、頂上近くと思ったところよりもっと先に頂上が見える。その頃より森林地帯となり進み難い。下山者より頂上までスキーでいけるが、笹の上の雪で滑りにくいと聞く。
やっと根子岳頂上(2207m)。可愛らしい祠がある。見晴らしは一寸曇りで良くない。しかし風が無いのが何よりだ。多分高校スキー部員と思われる若い連中が、大勢牧場の方から上ってくる。皆元気で立派な装備である。

頂上で八方写真を撮り、シールを外し、早々に滑り出す。下りになって解った事は、一寸シュプールから外れて新雪に突っ込むと、笹の中にスキーが入り、動きが取れないのだ。それに岩も出ている。案内書に頂上手前でスキーをデポするように書いてあった理由が解る。
既に予定より遅れ、且つ人を待たせているので焦る。それに飲まず食わずが悪かった。足やあちこちが急に釣る感じ。疲れも出て体に粘りが出ない。大転倒を3度ほどやる。自信喪失。そこに又又若い連中にあっさり追い抜いて行く。このベテランを何と思っているのか。
取敢えず、少々腹に入れ、格好構わず一目散に下る。ゲレンデが見えたところからは条件良し。一時間遅れの詫びの連絡を入れて集合場所へ。友人たちは初めから間に合うとは思っていなかった様だ。
それにしても歳を考えずに焦って登ったのが悪かった。特にシール登行はゆっくりが大原則。反省することしきり。
帰りは浅間を見に行く。休暇村でビユウポイントを聞いてきた場所に行く。さすが美しい。噴火が不規則で、結構変化があるのだ。昔ジャワ島の最高峰、スメルという火山に登ったとき、目の前で音も無く大噴火をしたことを思い出す。

正面の四阿(アズマ)山、その右は白根より志賀高原の山並み、その右は日光、尾瀬方面であろう。白くて雄大な風景である。一寸こんな平らな雄大さは、むしろ北海道か大陸的の風景だ。

翌日湯の丸山方面に向かう。ここが彼の有名な「雪山賛歌」の発祥の地だ。初め知ったのは湯の丸スキー場の上部にあった看板だった。休暇村の人の聞くと記念碑があると言う。人に聞きながら捜すと、何と湯の丸登山口で、手前に寂れた旧鹿沢温泉紅葉館がある。
記念碑には、雪山賛歌の一番と最後が銅版上に書かれている。隣にその由来も詳しく書かれていた。要は大正15年1月、京都帝国大学山岳部が鹿沢温泉にスキー合宿をした。その終了後新鹿沢温泉に泊まった西堀栄三郎、四手井綱彦(当会靖彦さんの父上)酒戸弥次郎、渡辺斬の4人が吹雪に閉じ込められ、退屈紛れに、いとしのクレメンタインのメロデイーに、上の句、下の句と持ち寄って作り上げたと言う。西堀栄三郎さんの著書に、「薄暗い部屋で,四手井君が、一句一句出来るはしから書き止めたのを思い出す」と書かれているそうです。違和感を覚えるのは、我々はこれを三高山岳部の部歌と思っていることです。帰ってネットで調べたら、戦後京大山岳部員がこの歌を寮歌に加え、それが一般にも歌われ始め、そして三高山岳部で歌い継がれ、いつの間にか三高校歌集に組み入れられたのが原因の様です。面白いのは、作者不詳となっていたのを、桑原武夫さんが、作詞は西堀だと著作権登録をされ、この印税は京大山岳部の活動の大きな資金源になったと言う。
しかし残念な事に、出掛ける前、事務所の若い女性に聞いてみた。「雪山賛歌って知ってるか。」「知りません」「ほらダークダックスが歌ってたやんか」「ダークダックスなんて聞いたこともありません」と云うぐらい、もう昔の話なのです。又誰かが歌ってくれない事には消えてしまいます。
さてその湯の丸山、目前に丸いドーム状の山が見えるのだが、一見しただけで藪だらけ、雪は1m前後と思われるが、その程度では藪は埋まらないのだ。考えれば、昔は多雪で閉じ込められる程だったのだ。昨日の事もあるので、あっさり登るのを諦める。
  所でもう一つ面白い事がある。道路の写真を見てください。メロデイロードと書かれています。
ここは草津温泉や、尾瀬に行くとき、時折通るのだが、道路に仕掛けがある。今は雪があって無理だが、無雪期に自速四〇kmで走ると、あの雪山賛歌が聞こえるのだ。昨年6月通った時、タイヤがウーウー鳴ったが何のことやら解らなかったが、草津温泉近くなって、又ウーウー言うので耳を澄ますと、なんと「草津よいとこ一度はおいで~」と聞こえるのだ。今度湯の丸峠を通るときには耳を済ませたいものだ。
天気もパッとせず、小諸を経由、八ケ岳を散策、諏訪湖に泊まり、翌朝諏訪神社にお参り、ゆっくり帰阪した。山は一発だったが、温泉を堪能した。たまにはこんな旅も良い。

2011年12月28日水曜日

正月でふやけた体を雪にさらして引き締めませんか!

鎌田克則です。

今年の年末は大雪ですね。特に湖北は。さて正月の2日か3日午後から車で出掛け、余呉湖周辺の民宿辺りに泊まり、翌朝、北国街道栃の木峠付近のスキー場に車をデポ、栃の木峠東方向稜線~ベルグ余呉スキー場(休業中)~音波山(872,6m)~下谷山(971m)を往復しようかと思っています。(余呉トレイルの主稜です)相当豪雪(現在190cm)でワカンでは無理、スキーも細かい凹凸で多分不向き、スノーシューが有効かと思われます。
要は正月でふやけた体を引き締めるのに最適です。一発行こうという方居られませんか!!2~3人なら私の車で、それ以上ならどなたか車をお願いします。
詳細は、参加希望者の希望を聞いてきめます。但しある程度好天が条件です。
尚申し込みは、私がこのネットを30日以降見ることが出来ませんので、私の携帯か自宅にご連絡ください。ではお待ちしてます。

2011年11月28日月曜日

チュウトンさんより激励の手紙を受け取りました。

 先ずこの2、3日、古い山の会(その昔、山に行きたしは時間は無しで、山と車の会と言うのを作ったら、それからウン十年、最高94歳以下平均75歳ぐらいの人が、会は無くなったのに別れられず、勝浦温泉に集まった)に行っているうちに、えらいmailのやり取りが沢山あり、これMLのおかげでしょうか。全く夢の様です。 
 ところで北山の会の通信の件ですが、この間の総会の出席者が少なかった事から、通信の発行と、北海道方面山行(アンチンさんに企画依頼中)を提唱し、動き始めました。しかし肝心のチュウトンさんの了解が不確実でした。 
 そこでそのご了解と予算のお願いの手紙を送っておきました所、提案の趣旨に賛同する旨の手紙を頂きました。
加えて
1)総会は人数が少なくとも、継続したい。
2)ブログはもとより通信で未来へ向けて活動報告が載ることを期待する。 
3)会報は他の山岳会より充実したものをと、心がけてきたが、それについては今後も続けていく。4)通信にかかる諸費用は、会計より支出する。 
以上のようなお返事を頂きました。
 それ以外に、石徹白の故事来歴を調べ、会報の原稿を作成中とか、志賀高原行きは2部屋予約しているとか、蕨平は、参加希望が沢山来ている等、が記されておりました。
 これで天下晴れて堂々通信が発行できる様になり、名簿も頂きましたので、年内発行を目指し、四手井さんに編集をお願いしています。
 皆さんの計画や、報告、ニュース、トピックス MAILやブログで一部の人しか伝わっていないと思われる情報も載せたいと思っています。皆さんの積極的な協力をお願いいたします。
 高鍬さんより、MAILアドレスの載せ方について注意いただいております。大いに参考になり、早速訂正いたしました。皆さんも注意されるようお勧めします。有難うございました。
 東北森吉山より岩手山の計画にえらく燃えておりますが、何なりとご意見、希望をお待ちもうしあげております。
 それとそこまでの交通機関について、車にすべく張り切っておりますが。何の反応も無いので、力が抜けかけています。来年春の話に年甲斐もなく今から燃えているのが恥ずかしい。
 なんやかや書きました。そのうち通信を送りますのでご期待ください。
                                            鎌田 克則

2011年11月25日金曜日

早春の森吉山から岩手山へ山スキー計画  荻野和彦







 上記計画は、前副会長 荻野和彦さんが、その仲間と練られたものです。が北山の会でも揉んで欲しいと御注文です。
 私は高鍬さん経由でこの計画を始めて知り、震えました。
 かねがね行きたいと思っていた所ですが、このルートは、体力も、技術も当然ながら、山スキーですから、足並みの揃ったメンバーの参加が必須です。とても無理と諦めていました。
 そこへ突如この計画が降って来ました。この計画の内容は、詳細を御覧になれば解りますが、3つに分けて、幕営用具持参の長期の山スキー計画で、私としてはとても無理です。
 しかしよく見ると、玉川温泉、後生掛温泉、網張温泉が中継点となっていて、3ヶ所共車で行けます。
 そこへ目を付けて、各温泉に先廻りして出迎え、送り出しその前後は同行、後は温泉ベースにワンディハイク楽しむと云う軟弱な計画をし、荻野さんに申し出ました所、OKが出ました。
 荻野さんは、優秀な医者が同行するからストレス、腰痛等等リハビリに良いとおっしゃっていますが、とてもその甘言に乗れるものではありません。
 よって我と思わん人は荻野さんの縦走組へ。軟弱な人は私の方(但し運転出来る人)にお申し出下さい。
 詳細内容は、荻野さんなり、私にお問合せ下さい。
 では シーハイル        
                                       鎌田 克則
                          ( 鎌田mailアドレス rac-kamada@@tkcnf.or.jp )

2011年11月12日土曜日

山に英雄はいらない

「岳人」11月号の記事がちょっと話題になった。一部に誤解があるようである。私は竹内君の記事を批判したわけではなく、太田君も批判はしていない。ただ、一般に、「…の父」という大げさな称号は止めた方がいいと考えているだけである。太田君も同じような考えだと思える。山には「英雄」はいらんのだ。京都の登山界は大きく分けて二つの流れがあるとしたが、優劣は論じていない。基本的に、山は好きなように登ればよい。ただ、北山に関しては、「北山の会」が主体的に関与したいと考えている。
 マスコミは英雄をつくりたがる。森本次男を英雄視すると言えば大げさだが、「北山の父」とするのは一種の偶像視である。英雄視も偶像視も似たようなものだ。本人が望んだわけではなかろうが、取り巻き、あるいは英雄待望の世論(マスコミ)というものが作用していたかもしれない。
アウトドアの世界で、現代のつくられた英雄の典型は植村直己であろう。植村には何の恨みもない。植村を称賛したい人はすればよい。だが、私から見れば、植村は近代アルピニズムの範疇からは完全に外れた存在である。近代アルピニズムの根底思想はパイオニアワークとアマチュアリズムである。
ヒマラヤの処女峰時代が終わって、登山は変質した。即ち、スポーツ化と商業主義の台頭である。処女峰がなくなったので、次に狙うのはバリエーションルート、アルパインスタイル、無酸素といったよりスポーツ的傾向であった。また、テレビの影響で商業主義が強く表れた。登山の職業化である。これはアマチュアリズムの崩壊を意味する。登山を続けることでマスコミの脚光を浴び、生計をたてるという人々が現れた。植村がその嚆矢である。植村はテレビで持てはやされ、テレビのために死んだ。
植村に没後、国民栄誉賞が与えられた。どういう賞かよくわからない。植村は死んでいるから、それを望んだかどうかわからない。だが、生きていたとして、それを拒んだとは考えにくい。英雄視された男にふさわしい栄誉というべきか。
ヨーロッパにラインホルト・メスナ―という登山家がいる。8000m14座にすべて登った男である。毀誉褒貶激しいと聞くが、私はメスナ―を秘かに尊敬している。オリンピックの“愚物”サマランチが特別メダルをやる、と言ったとき、メスナ―は何と応えたか。「登山はスポーツではないからいらん」だったのだ。世俗を嫌うこの一言は、十分に傾聴すべき価値がある。
メスナ―は少し遅れて世に出た登山家である。処女峰時代は終わっていた。だから、無酸素とか、単独登攀というスポーツ的登山に向かわざるを得なった。そのメスナ―にして、「登山はスポーツではない」と言わしめたのは何か。私はそこに、ヨーロッパに深く根付いた近代アルピニズムの矜持を見る思いがする。植村との違い、日本とヨーロッパの思考の違いといったものも感じてしまうのだ。
余談だが、「ヒマラヤ 運命の山」というメスナ―を主人公にした映画を観た。特にメスナ―を英雄視していないところがよかった。ナンガパルバットでの隊長の指揮を無視した行動、弟ギュンターを死なせたことなど、淡々と描かれていた。
 友人の前芝茂人君(同志社山岳会、日本山岳会)からスイス山岳会についての知見を得ているので紹介する。登山先進地のヨーロッパと日本の、登山についての思考の違いを痛感する。前芝君は小学館でスイス山岳研究財団が出す「マウンテン・ワールド」の日本版編集をしていたことがある。1982年にスイスを訪ね、同会幹部のA・エグラーと打ち合わせをしたとき、エグラーはこう語ったという。「1960年代でスイス山岳会の役目は終わった。『マウンテン・ワールド』も1969年までで廃刊したのだ」。1960年はスイス隊の二つ目の8000m峰、ダウラギリ登頂の年代を意味するのかもしれない。時代の変化を認識している。前芝は一つの見識と思ったと、いまになって思い返す。
 スイスの貴族ド・ソシュールがモンブランに登って近代アルピニズムに火をつけたのは1787年、難攻不落のマッターホルンがイギリス人、エドワード・ウインパーによって登られたのが1865年である。この間に、ヨーロッパ各国で登山活動の花が開いた。
一方、日本において、ウオルター・ウエストンの前穂高登頂(1893年)を近代アルピニズムの開花とするなら、ド・ソシュールとの間に約100年の差がある。列強入りを目指して欧米の技術、文化を取り入れようとしていた明治期の日本人は、ハイカラな登山にもいち早く目をつけた。1905年には日本山岳会が興り、1956年にはヒマラヤのジャイアンツ、マナスル初登頂の栄誉を掌中に収めるに至った。恐らく、関連する人口、その実績において、日本は世界を代表する登山国であろう。だが、昨今の登山界の変貌に対処する姿勢には彼我に著しい違いが見られる。それはヨーロッパと日本の、近代アルピニズム100年の差によものではないだろうか。メスナ―の登山感にも、それを強く感じるのである。
 処女峰時代が終わって、近代アルピニズムは終焉した。日本においてはマナスル登頂で一つの時代が終わったのである。だが、日本の登山界にはその認識がない。無定見にスポーツ化、商業化を受け入れ、近年は「山の日」制定などの茶番に血道をあげている。スポーツ化、商業化が悪である、と決めつけるわけではない。山は好きなように登ればよい。だが、近代アルピニズムを標榜してきた山岳会にあっては、そこに一線を画してほしいと思うだけである。日本国は敗戦という一つの時代を区切りに、民主国家として新しく生きることを世界に宣言した。登山界はそれをしていない。

 話が逸れた。山の世界に英雄はいらないが本筋であった。「父」もいらない。商業主義は英雄を待望する。そこに登山家が陥る危ない罠がある。北山の山岳史跡公園構想は、公園化して標識やベンチを設置しようとするものではない。北山荘周辺が私有地であることに一抹の不安を感じているのである。所有者が代わると、北山荘がどうなるかわからない。府教委に買ってもらうか、我々が買うか、一切の開発を断ち、現状維持できる道を模索したい。
(2011年10月27日、四手井 靖彦)